ごきげんよう!さわこです
朝日に輝く楓(ふう)
聖書通読 創世記32:3-36:43
注解つき新改訳聖書より
32:10
「私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りないものです」
かつてのヤコブはこう告白する者に成長した。
32:24
ひとりだけ残ったヤコブは、解消できない不安のために、切実な祈りを必要とした。
そして、「ある人と格闘した」
ある人とは、神の使いであり、ヤコブの罪を責める神の声であった。
良心の呵責であり、祈りの格闘であった。
ヤコブは強烈な自我と兄を欺いたことによる罪の意識に苦しんでいた。
32:25
ヤコブのもものつがいがはずれた。
「もものつがい」とは肉体を支える力の所在であり、霊的には自我を表す。
32:20
ヤコブは兄エソウにたくさんの贈り物を送ることによって、兄をなだめた。
「なだめる」は「おおう」を意味する言葉であるが、やがて贖罪を意味するようになった。
ももの関節をはずされ脚を引きずるヤコブ。
神に取り扱われることによって自我は砕かれる。
神との格闘を経て、敗北による勝利を得た。
※ ※※ デボーション
私は、ここに、キリスト信者の極意を見ました。
自我が砕かれ、自己を明け渡すことは、罪が侵入した後の人格にとっては、容易ではないのですね。
大争闘、大格闘なしには、真の悔い改めは起こらないと学びました。
私たち信者は、神に委ねる、任せると言った表現を好みます。
まるで魔法のような信仰マジックの言葉。
神様との格闘の祈りという苦闘をしている人に、
「委ねないから苦しいのよ。すべて神にお任せしたら良いのですよ」と信仰的な助言する人が多い。
自我が砕かれ、自己を明け渡すための聖なる祈りの苦闘だと理解し得ていないのではないかしら。
きっと、誰の信仰生活にも、ヤコブのヤボクの渡しでの祈りの格闘体験があるはずです。
深い悔い改めを神様から賜り、その祝福として、自我を砕いて頂き、自己への執着心から解放される。
その聖なる格闘の祈りとしての聖域に、「ゆだねなさい」と言う助言は場違いでないかと思います。
正解であり、模範解答であろうとも。
真の悔い改めに与かろうとしている者に対して通せんぼうしているみたいだ。
マラナ・タ
今朝は創世記32章だけで時間切れになりました。
コロナ禍で、安息日礼拝が一時間だけになりましたから、帰宅してから続きのデボーションです。