ごきげんよう!さわこです
今日は、午後から、自分に課した宿題に励みました。
あまりに長くなったので、読んでくださる方に申し訳ない。
朝の散歩道。
楓の木が、日ごとに色づいて行きます。
人は死んだらどうなるか(各時代の大争闘下巻33章)よりのまとめ
1、サタンは最初の大欺瞞者
サタンは、人間の歴史の最初から、人類を欺こうとする働きを始めました。
天で反逆を起こしたサタンは、「神の律法は圧政的であり、神の被造物の幸福に反するものである」と主張したのでした。
そして、天使の三分の一を味方につけ反乱を起こし、天から落とされたのでした。
サタンは、神様がこの地球を創造されたのを見て、この地球の住人を神から引き離して堕落させ、自分の権力下において、神に反対する王国を建設しようとしたのでありました。
神様はアダムとエバにこの危険な敵について警告を与えておりました。
サタンは目的を達成するために、真意を隠して働きました。当時魅惑的な姿をしていた蛇を用いてサタンはエバに近づきました。
「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」(創世記3:1)とサタンはエバに話しかけたのでした。
エバがこの誘惑者と言葉を交わしたために、サタンの策略に落ちてしまったのでした。
今でも、多くのものがサタンに打ち負かされてしまうのはこれと同じパターンです。
神の要求に対して疑いを抱き議論し神の命令に従わないで人間の説を受け入れるが、それは偽装したサタンの策略である。
エバは巧みにサタンのペースに巻き込まれて行きます。
女(エバ)は蛇に言った。「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、触れるな、死んではいけないからと、神様は言われました」 蛇は女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神の様に善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:2-5)
つまり、サタンは、あなたがたは神のようになって、これまでよりももっと素晴らしい知恵を持ち、これまでよりももっと高い身分になることができるだろうと言ったのです。
エバは誘惑に負けました。
(神はご自身に似せて人を造られ『見よ、それは極めて良かった』(創世記1;3)と書かれていますから、神様ご自身が最高の作品だと喜ばれるほどの素晴らしさであったのです!それにもかかわらず・・・巧みにサタンはエバにもっともっと素晴らしくなりたいと言う貪欲な思いを抱かせてしまったのではないでしょうか)
そしてアダムもエバに感化されてしまいました。
神の言葉はそのまま信じるべきではないという蛇の言葉を二人は受け入れてしまいました。
二人は、創造主を信じないで、神が自分たちの自由を束縛しておられるものと考え、神の律法を犯すことによって、大きな知恵と高い地位を得ようとしたのでありました。
アダムは、罪を犯した後「それを取って食べるときっと死ぬであろう」(創世記2:17)と言う神の言葉をどのように悟ったのでしょうか。
神は宣告されました。「あなたは土から取られたのだから、土に帰る。あなたはちりだからちりに帰る」(創世記3:19)
アダムとエバは、神に背いたあとで、目が開かれて、自分たちの愚かさを悟ったのでした。
二人は悪を知り、戒めを犯した苦い結果を味わったのでありました。
2、失われた永遠の命
エデンの園の中央に命の木が生えていて、その身には声明を永続させる力がありました。
アダムが神に従っていたなら、この木の自由に近づくことができて、永遠に生きたのでありました。
しかし、罪を犯したときに命の木の実を食べることができなくなり死ぬべき者となったのでした。
「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」との神の宣告は、生命が完全に断たれることを示しておりました。
服従することを条件として人間に約束された不死は、戒めに背いたために失われることになりました。
アダムに向かって、服従することなしに生命を約束したのは、大欺瞞者サタンだけでありました。
エデンの園で蛇がエバに言った「あなたは決して死ぬことはないでしょう」と言う言葉は、霊魂不滅について語られた最初の説教でありました。
このサタンの権威に基づくこの宣言が、キリスト教界の講壇から繰り返して叫ばれ、アダムとエバが受け入れたように、人類の大部分がそれを受け入れているのです。
サタンの言葉を軽々しく信じながら、神の御言葉がなかなか信じようとしない人々がいることに驚かずにはいられません。
サタンは人類の堕落後、部下の天使たち(天使の三分の一はサタンの配下に下った)に命じて、人間は生まれながら不死であると信じ込ませようとしてきました。
先ず、こうした間違った考えを受け入れさせておいて、罪びとは永遠の不幸の中に生きなければならないと思い込ませました。
さらにサタンは、神は執念深い暴君であるかのように見せかけて、神の御心を喜ばせない者はすべて地獄に投げ込まれ、永遠に神の怒りを受けねばならないのだと断言したのです。
サタンは自分自身の性質を恵み深い神の性質であるかのように思わせようとしたのでした。
創造主に対する信頼感をゆるがせ、神の統治の賢明さと、神の律法の正当さとを疑わせて、アダムとエバに打ち勝ったサタンは、今日も同じようにして人間を誘惑し打ち負かそうとしています。
サタンは、聖書の強烈な表現を曲解させて、悪人が死ぬと永遠の焦熱地獄で苦しめられる言う邪説を組み立て、愛と恵みに満ち憐れみに富んだ聖書の宗教が、迷信によって恐怖で覆われています。
3、普遍救済説の欺瞞と誤った聖書解釈
永遠の責め苦の教理を嫌悪する人々は、正反対の誤りの教理に追い込まれました。
魂は元々不死であると信じているために、神の恵みに付け込んだ教理となっています。
神の正義を無視し、人間の肉の心を喜ばせるために聖書を曲解した作り話となってしまうのです。
これはサタンの作り出した教義であります。
その方法とは、聖書本来の解釈とは全く正反対の意味となるような聖句を、文脈を無視して聖書から切り離します。
こうして切り離された聖句が曲解されて、神の言葉に基づかない教理の証拠に用いられるのです。
真理が推論によって偽りとされて誤まった聖書解釈によって肉の生活に安んじてしまいます。
肉のまま俗のまま生活をしていようとも、救われ天にあげられるのだと。
罪に抵抗することも戦うこともなくても、平和であると平安であると。
しかし、聖書はそのようには言っていません。
・ 悪しき者はわざわいだ、彼は災いをうける。その手の為したことが彼に報いられるからである。(イザヤ3:10,11)
・ 罪びとで百度悪を為して、なお長生きする者があるけれども・・・しかし、罪びとには幸福がない。(伝道の書8:12,13)
・ 罪人は、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを自分の身に積んでいるのである。神はおのおのそのわざに従って報いられる。悪を行うすべての人には艱難と苦悩が与えられる(ローマ書2:5,6,9)
・ すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、偶像を礼拝する者はキリストと神の国を継ぐことはできない(エフェソ5:5)
・ 清くならなければ誰も主を見ることはできない。 (ヘブル12:14)
・ ・・・まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、偽りを好みこれを行う者はみな、外に出される。(黙示郎22:14,15)
・ 「主、主、憐れみあり、恵みあり、怒ること遅く、慈しみと、まこととのゆたかなる神、いつくしみを仙台までも施し、悪と咎と罪とをゆるすもの、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず」(出エジプト記34:6,7)
・ 「主は…悪しき者をことごとく滅ぼされます。(詩編145:20)
4、自らの運命を決めるのは人である
神は脅して強制するためにこのように言っているのではありません。
神の律法の原則を聖書に書いているのです。
こうした処罰の執行は恵み深く忍耐強い、慈悲に富んだ神の品性と完全に調和しているのです。
神は、どんな人の意志または判断をも強制なさいません。神は奴隷的服従をお喜びになりません。
神は人間が神の知恵と正義と慈愛をよく悟ったうえで、神に従うことを望まれます。
神の政府の原則は「あなたの敵を愛せ」と言う救い主の教えと完全に調和しているのです。
神は悪人を処罰されますが、それは宇宙の幸福のためであり、処罰が下される本人たちの幸福のためでさえあるのであります。
処罰される者たちは、神の愛を軽んじ、神の律法を無効にし、神の憐れみを拒み、絶えず神の賜物を受けながら、与え主である神の御名を汚すのです。
神は彼らの強情を長く忍ばれました。
しかし、ついに、運命が決まる決定的な時が来るのです。
サタンを指導者とし、その力に支配されてきたものは、高慢、欺瞞、放蕩、残酷が性質になってしまった。
そうした者たちにとって天は楽しみも喜びも与えることができないのです。
神に反逆した生活が、天にふさわしくない者にしてしまいました。
神の栄光が焼きつくす火になってしまうのです。
自由意志を反逆に用いた悪人の運命は自らの選択によって決まるのです。
自ら進んでそうするのであります。
カインの時代、ノアの時代、アブラハムとロトの時代、我々の時代においても同様なのです。
神が、神の恵みを拒否する人々を最終的に滅ぼされるのは宇宙に対するあわれみからなのであります。
神の深い慈愛と憐れみのゆえに自ら滅びを選びとる人間に対して、神様の苦悩はいかばかりであろうか。
イエス様は人類の罪を背負われなさいました。
そして信じる者は天国にあげられるにふさわしい品性を持つように変えられました。
神のその救いの御手を振り払う選択をした人々に対して、神の正義と憐れみが効力を発揮しないとは・・・
徹底して頑なになった人間は永遠の滅びという道を自ら選択する結果となるのです。
神様は救いたいのに救えない神様のジレンマ。それもまた、神の正義と憐れみなのです。
川に写っているシラサギたち
5、永遠の生命か、永遠の滅びか
「罪の支払う報酬は死である。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である」(ローマ6:23)
義人の嗣業は生命であるが、悪人が受けるものは死である。
モーセは、イスラエルに次のように宣言した。
「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災いをあなたの前に置いた」(申命記30:15)
この聖句の中で言われている死は、アダムに宣告された死ではない。
永遠の生命と対照されているのは「第二の死」である。
アダムの罪のために死は全人類に及んだ。
誰もが同じように墓に下って行く。
しかし、救いの計画が設けられたことによって、すべての者が墓からよみがえらせられるのである。
ヨハネ5:28,29
「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聴き、善を行った人々は、生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は、裁きを受けるためによみがえって、それぞれ出て来る時が来るであろう。」
使徒行伝24:15
「正しい者も正しくない者も、やがてよみがえる・・・」
コリント第一15:22
「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」
黙示録20:6
「この第一の復活にあずかる者はさいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては第二の死は何の力もない。」
「悔い改めと信仰によって赦しを受けなかった人々は「罪の支払う報酬」(ローマ6:23)を受けなければならない。それは第二の死に終わる。」
詩編37:10
「悪しき者はただしばらくで、失せ去る。あなたは彼のところをつぶさに尋ねても彼はいない」。
オバデヤ書16
「かつてなかったようになる。」
こうして、罪と罪の結果である災いと破滅が終わりを告げる。
詩編9:5,6
「あなたは・・・悪しき者を滅ぼし、永久に彼らの名を消し去られました。敵は耐えはてて、とこしえに滅び」
6、死後の状態
死者に意識があるという教理は、霊魂不滅という』根本的な誤りに基づくものである。
この教理は聖書の教えに反するものであり、理性にも慈悲の心にも相反するものである。
義人が死ぬとすぐに天国に行ったのであれば、復活は必要ないはずである。
死ねば不死の祝福にあずかると言う希望のために、聖書の復活の教理が一般に軽視されるようになった。
イエスは、弟子たちの元を去るにあたって、彼らがすぐに自分のところに来るであろうとは言われなかった。
キリストはこう言われた。
ヨハネ14:2,3
「あなたがたのために場所を用意しに行く。そして言って、場所の用意ができたならば、また、来て、あなたがたをわたしのところへ迎えよう」
パウロは、さらにこう言っている。
テサロニケ第一4:16-18
「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声とラッパの鳴り響くうちに、合図の声で天から降って来られる。その時、キリストに会って死んだ人が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。これらの言葉をもって互いに励まし合いなさい」
7、審判はいつ行われるか
全ての人は、天の書物に記されたことに従ってさばかれ、その行為に従って報いを受ける。
この審判は死ぬときに行われるのではない。
もし死者がすでに天国の祝福にあずかっているのであれば、あるいは地獄の炎に苦しめられているのであれば、将来の審判は何のために必要なのであろうか。
8、死は眠りである
霊魂不滅説は、ローマが異教から借りて来て、キリスト教の中に織り込んだ偽りの教理の一つである。
「死者は何も知らない」(伝道の書9:5)。
死者には感覚がない。死者は全く何も感じないで眠っている。日も年も数えることなく横たわっている。
しかし、目覚めるときにはほんの一瞬眠ったか、眠らなかったか、というほどにしか思わないであろう。
死ねば、義人は天に行く、悪人は罰せられるというようなことは、聖書のどこにも書いていない。
「ちりは、元のように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12:7)
「人は死ねば消え失せる(ヨブ14:10)
「天の尽きるまで、目覚めず、その眠りから覚まされない」(ヨブ記14:12)
深い眠りから目覚めた時に、その人は考えるのをやめたその所から考え始める。
「死は勝利に飲まれてしまった。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか。」(コリント第一15:52-55)という勝利の声となって響くのである。
マラナ・タ
「クリスチャンは死んだらすぐに天国に行く」
こういう神学が大多数である中で、聖書にはこう書いてあると、
公言することは、わたしには勇気が要ります。
異端のキリスト教だとの非難を受けることを気にしてしまうからです。
聖書にこう書いてあるから真理です、と胸を張れること。
多数派だから真理でしょうか。