ごきげんよう! さわこです。
2016年の9月に投稿した記事。
「鑑三氏はかく語りき」とのタイトルで
内村鑑三の著書から、響いた言葉を書きました。
文面を整理して、再投稿。
今夕の空は、台風が接近している影響でしょうか。
あまり見ることのない雲の姿です。
「 人はいつの日か苦しみのなかにも恩寵があることを発見しなくてはならない。」
「祈ることすらできないとき、人は神の絶対の庇護を必要としている。」
ローマ書8:26が思い起こされました。
「同様に、“霊”も弱いわたしを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」
この聖句を初めて知ったのは30年前、今は亡きO長老が礼拝説教で語ってくださいました。
ああ、言葉にならなくても支離滅裂でも構わないのだ。
聖霊の神様が執り成して祈ってくださるのだ。
私の信じた神様はそういうお方なのだ、とほっとしたことを思い出しました。
O長老の面影と鑑三氏の写真が重なりました。
鑑三氏はかく語りき
「 祈りは、救いの条件ではない。むしろ、祈ることすらできない時に人は、神のもっと近くに引き寄せられる。祈る時に恵みがもたらされるのではない。祈らずとも神は人を庇護する。」
この言葉も、上記の聖句とつながります。
なんという安心でしょうか。
しかし、「ただ、祈りを経ない人にはその恩寵を認識できない」
という言葉が続きます。
神を拒絶する者は「その恩寵を認識できない」というのです。
神があわれんでくださっていることさえ認識できないとなんと嘆かわしいことでしょうか。
鑑三氏はかく語りき
「無限の愛は、ただ無尽蔵に降り注ぐ。愛はときに苦難の経験を通じてもたらされる。人が求められているのは、それを見いだすことだ」
苦難の経験の時にも、神の愛を見いだすことができるには、御言葉を蓄えることによって、イエス・キリストを正しく知ることができるからです。
自分の人生の中で聖書を真剣に読んでいくこと蓄積があってこそ、鑑三氏の言葉が我が魂に響くのです。
マラナ・タ
イエスを信じる者は、御言葉の蓄えの多少にかかわらず、“霊”が働いてくださいます.
内村鑑三氏の言葉はしみいります。
彼は、キリスト信仰を持つ故に、真摯であり続けたがゆえに、苦しんだことも多かったかと思います。
世の中のキリストを知らない人ばかりではなく、キリスト者である同胞からも。