ごきげんよう!さわこです
今朝の北山 うっすらと雲
今週、月曜日から金曜日までの通読は新約聖書は、ヤコブ書でした。
深い学びを頂きました。
ヤコブ2:20---24 部分引用
ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
私たちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのでなかったか・・・
アブラハムにおいて、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、「アブラハムは神を信じた。それによって、義と認められた」という聖書の言葉が成就し・・・人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
スタディバイブル新約514.515ページより一部引用
真の信仰は、信じる者のうちにおいて、真の業を行うのである。
愛によって働かず、魂を清めない信仰は誰をも義としない。
我々の信仰は良い行いに富むべきである。
なぜなら、行いのない信仰は死んだものだからである。
今日も暑くなりそう・・・
(さて、私の感想 ・・・デボーション)
ルターはヤコブ書をわら同然の藁の書であると言いました。
しかし、宗教改革後も、ヤコブ書は新約聖書から外されることはありませんでした。
なぜ?
行いと信仰は車の両輪、コインの裏と表。真の信仰は行いを生む、ことをクリスチャンたちは御霊の導きにより知っていたからだと思います。しかし、ルターが危惧し藁の書と呼んだように、神の導きによる恵みが生む行いを、人間の力が横取りし、自我を誇ることを生む可能性を秘めており、サタンがそこに目をつけやすいからではないだろうか? と 思うからです。
神をほめたたえ、神に感謝すると言いながら、被造物たちが互いを、自画自賛するように引っ張っていく闇の存在。
主の祈りを祈りました。
「・・・我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」
信仰の友のことばを紹介します。
「救いは 行いではないが 強調されて、み霊の実の 行いが 軽くなってしまったので、エルサレム会議で 議長をされた主の兄弟ヤコブ(先生)は、心を痛めて 手紙を書いたのでしょうね。とても大切な手紙だと思います。」
ヤコブ3:14.15.16
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しい妬みや党派心をいだいているのなら・・・そのような知恵は、上からではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。ねたみと党派心のあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。
スタディバイブル515-516ページより
敵の示唆に心を開くものは、悪い憶測を取り入れ妬みを抱く。
しかもこの心の動きを、先見の明、識別力、洞察力であると曲解する。
多くの者は称賛するが、このような知恵は欺瞞的であり有害である。
それは、上から来たものではなく、生まれかわっていない心の実である。
その創始者はサタン自身である。
他の者を非難する者は、自分に洞察力があると誇ってはならない。
欺瞞的先見の明、欺瞞的識別力、欺瞞的洞察力。
その人が影響力のある人であれば、
その人が気配り上手の働き者であれば、
その人がパフォーマンスに長けていれば
憶測が大手をふって歩きはじめる。
職場であろうと、学校であろうと、
ご近所であろうと、ましてや教会であろうと。
この世界の支配者は、サタンなのだから。
光の天使を装いさえするのだから。
マラナ・タ
ヤコブ書は、「クリスチャンは善い行いをしましょうね」
との勧告書的に、ヤコブ書を表面的に読んでいるならば、
「信仰による義 VS 行いによる義」
の波の中に呑み込まれてしまう。
御霊の導きに、神の御心を掬い取らなくてはならない神の叡智の書。
あのルター先生でさえ、「藁の書」と言い放ってしまいさえした手紙なのだから。