ごきげんよう!さわこです

エンジェルトランペットが咲きました。

 

 

今朝からの新約聖書通読は5日間、ヤコブの手紙。

スタディバイブル序論には

「キリスト教は真のユダヤ教の本来ある姿であるというのが、書簡の一般的趣旨」とあります。

律法は我々の品性の欠点を写す神の鏡。
あなたの信仰告白は、御言葉を実行しなければ何の価値もない。

(スタディバイブル512ページ)

 

 

デボーション
ヤコブ書を読んで、自己嫌悪に陥らない人がいるだろうか?
もし、いるとしたら、誰かへの裁きの思いで読む人くらいではないか。

御言葉を実行することをヤコブ書は勧めていますが、御言葉の実行とは、何か?

 

ついつい

いと小さき者の一人にしたのはキリスト様にしたのである、しなかったのはキリスト様にしなかったのであると、マタイ25:40.45に結び付けたくなってしまう。

良きサマリヤ人の例にも結びつきます。ルカ10:25-37

ルカ10:36.37
この3人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか。
彼が言った「その慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた「あなたも行って同じようにしなさい」

 

そうすると、自己犠牲、自己否定が、自分以外の誰かに向かう善行的奉仕活動に集約されてしまう。 

 

御言葉の実行とは、弱者の必要を満たす奉仕活動を意味するのか? 


こういう問題提起をすると、善行的奉仕を否定しているかのように、誤解・曲解されるだろうか?

 

御言葉の実行とは、聖霊を油壷に満たして、絶えず祈り、いつも目を覚まして、イエス・キリストなる神と共にいることではないか。

その祈りの中で、私のなすべきことを教えてください、示してください、と、さらに具体的に求める祈りではないか。
何をするかの前に、神様との関係を深く日常的に持ち続けることではないか。

 

イエス様の御名によって、聖霊に導かれて、日々、父なる神の御前に額づく者に、神様は、進んで善行を行うように、その機会や力を与えてくださるのではないか。

 

慈悲深い行いは、御霊の導きそのものではないか。

 

日々の祈りの基礎を、御霊の導きを求めるところにおきたいと願いました。

 

 

 

本当に本当に難しいところです。

神様に促されて始めた善行でも、途中から自分の思い中心のものになってしまうこともあります。

 

神さまに、「ありのままをお話ししますから、打ち明けますから、自己欺瞞があるなら、お示しください。」

と祈るのです。


日曜日の安息日学校聖書研究ガイドに引用されていた「エレミヤによれば、神の言葉は火や鎚に似ています。それは私たちの人生の罪という不純物を焼き尽くし、頑な心を打ち砕くからです・・・」エレミヤ23:29
ここが鍵かな、と思いました。


私たちは、もともと、不純物も頑なさも持っていますから。

イエス様に倣い、イエス様の喜ばれることをしようと、張り切るとき、表面的模倣に陥り自己満足に陥ってしまうことがある。

しかし、自分にはそれに気づきにくいもの。また、痛い御言葉より、自分の心地よい御言葉を根拠にしたいし。

 

だから、自分に都合よい御言葉を選ぶより、通読やガイドや、その日に読むように神様様が用意して下さった御言葉に心を開くことかもしれない。

 

イエス様に倣う、イエス様を真似るとは、表面的ではなく、カタチだけではなく。
そうだ!

イエス様のマインドなのだわ !

御言葉によるイエス様との日々の交わりという関係に基づく祈りの生活、毎日の個人礼拝。
そこを、チャチャッと流して、イエス様のなされる奉仕的なことを始める。

優しげに、柔和げに、いつも喜びと感謝をアピールしてしまう。

自分で自分を演出していることにすら気づかない。

そして、そこで、留まっているとしたら。

もしかしたら、そういうことかもしれない。


ドキッとしました。


エレミヤ23:29染み込んでいます。

「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く鎚のようなものではないか」

 

 

マラナ・タ

心が頑なだとイエス様のマインドの入る隙が無い。
イエス様の心になっていない行いは
「わが名によって偽りをする・・・(エレミヤ23:25)」ことになってしまいます。