ごきげんよう!さわこです

 

  アメリカデイゴの花? 実?

  身近なところにさいていたのに、初めてみました。

 

咲くタイミング、通るタイミング。

タイミングの違いひとつで、今まで気づかなかった。

 

 

26日、日曜日の聖書通読箇所箴言18章からのデボーション。

三人の信仰の友と分かち合いました。

 

 

箴言18章8節

 

「人の良し悪しを言う者の言葉はおいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ」口語訳

 

陰口は食べ物のように呑みこまれ 腹の隅々に下っていく」新共同訳

 

ヘブライ語か、ギリシャ語か、訳するにあたり、

その持つ意味の広さを、日本語に訳すると、

どの言葉を用いたなら原語に一番近いのか。

悩みどころも満載だと思います。

 

この聖句の鋭さに痛みを感じる人は、

悔い改めの深みにいざなわれて、

自分はイエス様に祈られている存在であること。

また主を十字架につけた存在であること。

その事実を思い出せますように。

そして、悔い改めのデボーションヘと導かれる

へりくだった思いを持てますようにと祈りました。

 

そして、「人の良し悪しを、今まで一度も言ったことのない人はいるだろうか」

と声をかけてみたら、皆さんどのような反応を示されるのかしら。

 

「悪しきこと言いう前に、良い面を必ず先に言うように心がけているとか・・・」

「悪しきことを先ず言ってから、しかし、良い面もあるとか・・・」

「良い面の裏返しが悪い面になってしまうとか・・・」

 

 

 

例えて言えば、物の言い方ひとつで、良くも悪くもなってしまいますね。

 

「ていねいですね。」

  「おそいわね、おそすぎるわよ。迷惑がかかっているんですよ。」

 

「まあ、手早いこと」

   「仕事がぞんざいね。結局やり直ししなくちゃならないわね」

 

エトセトラ 似たようなことは限りなく・・・・・

 

また、「批評しているだけであって、それを悪口と聞いてしまうのは、聞く側の人格の問題ですよ」などと、言われてしまう場合だってある。

 

 

さて、

口語訳と新共同訳を照らし合わせてみたら、

 

「良し悪し」が 「陰口」となっている。

 

「単なる評論、建設的意見だ」 と言い放って自己正当化できるだろうか。

「人の不幸は蜜の味」→「人の悪口は盛り上がる」「結束力が強められる」とつながっていく。

 

この聖句を読むなり

瞬時に以上の記のことが、頭を駆け巡り、

人間知で読むだけでも、何と深い含蓄ある言葉だ・・・

と考え込んでしまいました。

 

「腹の奥にしみこむ」・「腹の隅々に下っていく」

 

悪口であれ、建設的評論であれ、口に出して言った言葉は、同じ口から呑み込んでしまう食べ物と同じで、体内に入り込み腹の奥に腹の隅々に浸透していく。

そして、血肉となり、その人の人格・気質・人柄・風情といったその人の人品を表わすための要素となっていく。

 

何と素晴らしくも恐ろしいことだろうか!

 

 

アメリカデイゴの木の幹は、こんなふうにごつごつしています。

 

 

友 A子のデボーション

「謙虚に自分を省みて、聖霊様来てくださいと祈ります。」

 

友 B子のデボーション

「どうか、あなたの愛を腹の奥にしみこませてください。」と祈りました。

 

 

 

マラナ・タ

続・さわこのデボーション

私たちの腹の奥に染み込むものは、あれかこれか。

主は日々私たちに問うておられます。

この、聖句の奥深さを思いました。