ごきげんよう!さわこです

お昼寝中の、うちのわんこ。

19さい。

 

 

30年前、

「祈り方がわかりません」 と、

神様に泣きついていました。

 

クリスチャンとなったばかりの頃、

聖書も少ししか読んでいなかった頃には、

片っ端から祈りの本を読み、

祈り方について、何冊のノートを作ったことでしょうか。

 

「家内安全祈願」「病気平癒」「交通安全」のような祈りを繰り返していたり、

「讃美します。感謝します。祝福してください。悔い改めます。」

と言った信仰用語を使えばきっとセーフかなって、とりあえず付け加えてみたり。

(もちろん、これらも大切な祈りには違いない)

 

流暢に祈る教会員たちの馴れた祈りに、

気持ちが引いてしまって、ますます、祈れなくなったり。

 

「何でも思うことを、願うことを、神様にお話するように祈ったらいいのよ」

と言って頂きましたが、

個人的な祈りと、公の祈りと、違いのあることにも気づくようになってきます。

 

祈りの格闘、祈りの学習。

 

そして、気づけば、

聖書通読とデボーションにいざなわれて、今があります。

 

聖書を読みこんでいく時に、

何をどう祈るのかは、聖書に記されていることに気が付くようになりました。

 

20年、30年と経過して、

こうした祈りの手ほどき、祈るための前提となったような本が

手もとに届くような時代が訪れました。

 

この本を読んでみて、

筆者の文章は、まるで、私の信仰生活の過程そのもののようでした。

私が信仰生活の中で続けて来たことと

同様なことが書かれていて驚きました。

御霊が歩むべき祈りの道に、

私を導いてくださっていたことを知って感謝があふれました。

 

以下「みことば日光浴(26-27ページ)」から、抜粋しました。

 

 

私に必要だったのは、

イエス様との本物の関係だけでした。

イエス様との良い関係は、

ある日突然築けるものではありません。

私は、イエスと一緒にいることを選ぶ必要かありました。

 

神様の御言葉を口に出し、

これは真実ですと 祈るようになりました。

 

祈りの中で、

聖句をあなたの祈りとしてささげるのです。

 

自分の中で何を考えているかを

神様に打ち明け、へりくだって言うのです。

 

自分の好きなように解釈するのではなく、

神様が聖句をして通して

何を言おうとしているのかを

しっかりと学ぶことが大切です。

                   以上。抜粋。

 

いなせな浴衣地がお似合いのうちの子。

 

 

マラナ・タ

結論は、イエス様との本物の関係を日々深めていく事に尽きるのです。

そうすれば、何をどう祈るかについて、悩みはなくなります。