ごきげんよう!さわこです。

 

 

今朝、100日の祈り 第84日目を読みながら・・・

 

書かれていなかったにも書かわらず、

私は、聖書のこの場面に、瞬時、連れて行かれました。

 

マタイ17章とマルコ9章  の、場面に私は飛ばされました。

 

マタイ17章から、要約します。(青字)

 

イエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。
そこで、三人の弟子たちはイエス様の輝く神聖を見、さらに

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」

という声も聞くのです。


山を降りる時、イエス様は、

ご自分が死者の中から復活するまで見たことを話してはならない

と、口止めなさいます。

 

さらに御自身も

バプテスマのヨハネのように、人々から苦しめられることになる

と、おっしゃいました。 

 

この言葉を、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、理解できたのでしょうか?

 

12人の中から、特別に選ばれて、イエス様のおともをして、高い山に登った。

そこで、神秘的な体験をした。

 

3人の中に、特別意識はなかったでしょうか?

優越感はなかったでしょうか?

 

そんな3人が、イエス様ご自身がバプテスマのヨハネのように人々から苦しめられるようになるということを信じられたでしょうか?

 

マタイ16章で、イエスさまが、ご自分の死と復活を予告なさったとき、ペテロは、どう言いましたか?

「主よ、とんでもないことです・・・」 とペテロは、イエスさまをいさめたのですよ。

弟子が、師匠を、被造物である人間が、神を、戒め諭そうとしたのですよ。

そんなペテロが、理解できていたでしょうか。

 

一方、残る9人の心の中に「なぜ?」との思いは皆無でしょうか。

イエス様は不公平だ、なぜ、私は選ばれなかったのだろうか? 

イエス様を慕う気持ちは弟子たち全員大差はないはずであるのに。

 

その、心の揺れ、動き。

嫉妬、自己憐憫、悔しさ。

こうした信仰と調和しない感情がうごめき始めたのてはないでしょうか。

 

イエス様から、自分へと、焦点がずれ始めた。

 

山の下に残されたそんな弟子たちに、

悪霊に取り憑かれた息子を癒やして欲しいと、息子を連れて来た人がいました。

弟子たちは治せない。

 

イエス様から、自分の気持ちの方に目が向いてしまっている9人の弟子たち。

そんな弟子たちが治せるのでしょうか。

 

山から下りてこられたイエス様のお言葉は
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか・・・」

でありました。

 

そして、イエス様は子供を癒やされました。


弟子たちは、なぜ自分たちが悪霊を追い出せなかったのかを尋ねます。

 

イエス様のお言葉は「信仰が薄いからだ」

 

イエス様のおっしゃった「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか・・・」

 

このお言葉は、当時の時代を指しているだけしょうか?

時代の評論でしょうか?

イエス様の弟子たちとは無関係でしょうか?

 

よこしまなサタンが主導権を握っているよこしまな時代、信仰のない時代。

イエス様の弟子たちでさえ、イエス様に見当はずれの期待をかけていました。

 

私たちの信仰は、どうなのでしょうか?

イエス様を信じたから、救われた。

バプテスマも受けたのだから、天国行きは間違いない。

この地上の人生の事業も成功するだろうし、

良い所に就職できるだろうし、

子どもたちもクリスチャンとしての出世頭になるだろう。

 

そうして、世の人々に、キリスト教を信じて、キリスト教会に属することでの成功を世の人々に見せることができる。

教会用語で言うならば「信仰の証し」。

そして、見た世の人々が信者となっていけば、我らの人生の成功は、そのまま伝道にもなっていく。

要するに、キリスト教もご利益があるよ。

ご利益を見せて伝道になるよ。

勿論、ご利益だって大事。

 

そのように考えているとしたら、

バプテスマのヨハネのように、人々から苦しめられることになる

この意味を心底から理解できるのは難しくはないだろうか。

そのようなキリスト教徒が聖霊様の働きをキャッチできるだろうか。

 

よこしまな時代に、クリスチャンとなった私よ、

キリスト教信仰を持っていると思い込んでいる私よ、

「何と信仰のないよこしまな時代なのか・・・」

このお言葉が、

「よこしまな時代に生きる信仰のないあなたよ」

と聞こえたのでした。

 

私の霊の耳が、少し開いたのでした。

主の霊が、私の腹の中を開いて、少し見せたのでした。


 


さて、マルコ9:29にはイエス様のこのお言葉も書かれています。


「この種のものは、祈りによらなければ、決して追い出すことはできないのだ」


私の心が刺されました。

私の不信仰が、白昼のもとに取り出されたのでした。

祈りの「質」を考えよ、と、神様に迫られたのです。

 

「この種のものは祈りによらなければ」とは、

「子どもの病気を治すためには、祈りが必要とされるのです」

そういう表面的なことではないはず。

 

 

ヘブライ 4:章 12--13節 にある通りです。

 

というのは、神の言葉は生きており、

力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、

精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、

心の思いや考えを見分けることができるからです。

 

さらに、神の御前では隠された被造物は一つもなく、

すべての者が神の目には裸であり、

さらけ出されているのです。

 

この神に対して、わたしたちは

自分のことを申し述べねばなりません。