ごきげんよう!さわこです。
病気のために神様への奉仕が出来なくなったとき、
その病気が、一時のことで、神様への奉仕に復帰できるときには、さほど悩むことはないのかもしれません。
しかし、短い期間であっても、健康管理ができなかったのは、神様に対して不忠実であったことが露わになったからだと、過剰に反省してしまって、自分を責めることが悔い改めであるとか、謙遜さの表れであるとか考えてしまう信者もいます。
ですから、祈りの方向性が、「この罪びとを許してください」と罪人である自分に向いてしまう。
あえて、あえて、「私は罪コール」を、しなくたって、
私たちが罪びとであることは、百も承知。
聖書にそう書かれていますから。
私たちは母の胎内の中にいるときから罪なる者であったとは「当然」のことです。
だからと言って、このことばかりを繰り返して、お祈りが私の罪の羅列になってしまってはいないか?
祈祷会の悔い改めの祈りが、出席者のプライバシーの罪の発表会になってしまっていないか?
神様への奉仕ができない悩みを神様に切々と訴えるのも祈りの一つ。
しかし、そうした祈りのままで、留まらないように、祈る者の祈りを引き上げようと気に掛けてくださる神様から目を離さないようにしよう。
マラナ・タ
自己憐憫に陥ってしまうこと。自己流謙遜に流されないこと。
神様中心の祈りを祈れるように導いてくださることに従えますように。