ごきげんよう!さわこです。

木槿の花の季節がやってきました。

淡いピンクが美しい。

 

 

令和2年6月13日安息日信徒礼拝あかしをさせていただきました。

 

ヨハネ福音書5:39

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」

 

この「わたし」とは、イエス様のことです。

ですから、この聖句に基づいて、私のことではなく、御言葉そのものであるイエス様のことをお証しいたします。

 

さて、4つのことを質問いたします。

①     神様を信じていらっしゃいますか。

その神様は聖書の神様で三位一体の神様ですか。

御子なる神をご自分の救い主キリストとして信じていらっしゃいますか。

ではその根拠は何処にありますか。

私たちクリスチャンの信仰の根拠はどこにあるのでしょうか。

プロテスタントのキリスト信仰は「聖書のみ」です。

ですから、勿論、聖書の御言葉に根拠を置いています。

 

②十字架にかかられて私たちの罪を贖ってくださったイエス様は今どこにおられますか?

その質問に対しての答えも勿論、御言葉にあります。

 

ヘブライ人への手紙1章2節3節  「天の神様の右の座にお着きになった」

同じく、8章1節2節  「主がお建てになった真の聖所また真の幕屋で仕えておられる」

 

③聖書に出て来る「幕屋」または「聖所」について関心はおありでしょうか?

ヘブライ書8章5節には、地上の幕屋また聖所のことを「天にあるものの写し」

9章23節には、律法は「やがて来る良いものの影」と書かれています。

 

④ユダヤの祭りに関心をお持ちですか?

 

私は聖書通読をするようになってから、ユダヤの祭りと聖所について非常に関心を持つようになりました。

ところが、クリスチャンの皆さんが同じだと言うわけでもないのですね。

 

信仰歴の長い友人から聞いた話なのですが、バプテスマを受けてから長い歳月が経っている方が、こんなふうにおっしゃったのだそうです。

 

「ユダヤの祭りは、当時のユダヤ人たちが守っていたことであって、イエス様の十字架の後、クリスチャンになった自分には全く関係のないことだし、ユダヤの祭りや聖所について知らなくても、聖書には美しい言葉での慰めと励まし、神様の愛と赦し、そして、道徳的な教え、そういう自分にとって必要なところを読むだけで十分お勉強になるのだから、私は、知る必要性を感じないわ」 

どうでしょうか?

 

現代のクリスチャンにとって全く関係のないことだとお思いでしょうか。

 

旧約聖書の解説書が新約聖書であり、新約聖書の解説書が旧約聖書である、と言われます。

この二つに分かれた聖書は全く一つなのです。

 

 

 

マタイによる福音書5章17節18節にこのように書かれています。

 

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。全てのことが実現し、天地が消え去るまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」

 

聖書全体が福音なのです。創世記から黙示録まで貫いている福音そのもの、神の義と愛のノンフィクションストーリーの重要なポイントがユダヤの祭りなのです。

 

ヨハネによる福音書の冒頭には

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずになったものは、何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」

 

ここには、聖書の言葉はイエス様ご自身であることが書かれています。

イエス様ご自身も「聖書は私について証しするものだ」と言っておられます。

 

つまり、ヘブライ書にかかれているように、律法も祭りも聖所も、すべてイエス様の写しであり影であり、そこをなぞることで、イエス様が見えて来るのです。

 

ユダヤの祭りは、

イエス・キリストによる贖いと救いと、再臨の希望という福音を指し示しているのです。

 

そして、イエス・キリストにある救いの計画を祭りという方法で、年中行事としてイスラエルの暦の中に記しているのです。

ですから、イエス様そのものであるユダヤの祭りを探っていくことは、神様を知ることなのです。

 

私がユダヤの祭りに関心を示さないではいられない理由はそこにあります。

 

 

 

では、ユダヤの祭りを、簡単に説明します。

まず、第一の月の過越しの祭りは、イエス様の十字架による贖いを示しています。

三日後の初穂を揺らせる祭りは、イエス様の復活を示しています。

 

過越しから50日目の7週の祭り(五旬節・ペンテコステとも言いますが)

モーセがシナイ山で十戒を授かった記念日であり、イエス様の昇天後に聖霊が豊かに降り、教会が発足た記念となりました。

 

7の月の1日目はラッパの祭り全国民に向けての悔い改めへの招きとしてラッパが響き渡る。

 

そして、10日は贖罪日年に一度大祭司が聖所から至聖所にお入りになって一年分の民全体の罪の赦しの執り成しの祈りをささげる最も厳粛な祭儀です。

 

この贖罪日は1844年10月22日にあたります。

イエス様が天の聖所から至聖所にお移りになった日。

再臨前調査審判の開始にあたります。

 

続いて仮庵の祭り。仮庵の祭りはイエスさまの再臨を示しています。

 

 

れらユダヤの祭りのすべては、十戒の中で示されている神様のご性質をご品性を、救済計画という福音を記しているのです。

 

神様がどういうお方で、どういう計画で、罪の根源であるサタンと戦い、人類をサタンの縄目から、解放してくださり、神様が絶対悪を裁かれ滅ぼし尽くし、新天地を再創造されるかを、祭儀によって物語っているのです。

 

御言葉によって、ユダヤの祭りを探っていくことは、神様を知ることなのです。 

 

ユダヤの祭りと聖所の儀式は、現代の私たちへのメッセージが秘められていることを心に留めておいてくださればと願っています。                                                                                                                                                                                                                                                          私たちは聖書の中から、慰められ、癒され、力を受ける聖句を、愛唱聖句として持っています。

皆様も「この聖句から、神様は私に一番必要なことを与えてくださった」ということが何度もあったことと思います。

 

誰にでも、人には、それぞれ、様々な状況が起きます。

個人的な問題をはるかに超えて、今、世界中を被っている疫病、新型コロナウイルスもその一つです。

 

その時に御言葉への信頼がなければ、神様を信じて生きていくことが困難になりはしないでしょうか。

 

私たちは、今、御言葉に頼るのか、御言葉に頼って、御言葉を土台として生きて来たのか、そのことが露わにされているのかもしれません。イエス様に焦点を定める生き方へと舵切りを迫られている時だと言えるのかもしれません。

 

神様を信じるということは、自分の感情や、具体的な願いがかなえられたとの個人的な体験を土台とするのではなく、変わることのない神様の約束である御言葉を根拠にすることが大事なことではないかと思うのです。

 

神様の約束である御言葉を根拠にする祈りが大事なのではないでしょうか。

 

私たちの毎日の祈りが、個人的な願望の祈りから御言葉に根差した神様中心の祈りへと、聖霊様によって導いていただく、聖霊様によって変えていただく、そういう祈りの信仰生活を共に歩もうではありませんか。

 

私たち神の家族が、御言葉に根差した祈りを、毎日捧げていくことで、神様との個人的な関係がより深く、より濃密になってゆく。

この交わりこそが、ヨハネの第一の手紙1章3節に書かれている「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であり、再臨への備えではないでしょうか。

 

 

マラナ・タ

与えられた15分という短い時間を、最大限に活用できますようにと、祈りながら、7回推敲を繰り返しました。

朝、目覚めて、書きあげたと思う原稿に目を通していると、聖霊様が、ここは・・・どうでしょうか・・・ね。

と相応しい御言葉を思い出させてくださいます。

文章の構成そのものを変えるように示されます。

冒頭に書いてあった聖句を、テーマに沿ってこちらに変えては如何なものかとささやいてくださいます。

何と祝福された交わりの時を頂いたことでしょう。

証直前には、どうか主よ、私を謙遜な者にしてください、と祈りました。