ごきげんよう!さわこです。
一昨日、5月23日土曜日、8週間ぶりの安息日礼拝が行われました。
礼拝説教のタイトルは、「主が遣わされたのです」
(牧師の話されたところは青字で書いてあります。)
お礼拝の欠席者が、まだまだ多いために、礼拝説教をプリントしてお休みの信徒たちに送っています。
(私は、帰り道にポストに入れるだけの係でしたが・・・)
私もプリントを一部頂いて帰って、読み返してお恵みを味わいました。
「人生には『何故、どうして?』との疑問がつきものです。現在、多くの人々が新型コロナウイルスによって、そのような思いを持っておられます」 と、お説教は始まりました。
勿論、コロナパンデミックに出会う前から、『何故?どうして?』と、人生の不条理に苦しんできた人たちも多いのです。
今回が、その人の人生にとって、初めての「何故?どうして?」で、あったとしたら、その人はそれまで、(人間的な目で見て)幸福な人だったのかもしれません。そんなことを思いながら、私は二カ月ぶりの教会でのお礼拝に参列できる有難さを味わっていました。
説教者の言葉は、「このようなことは、今にはじまったものではなく、人間の歴史と共に、古から起こっているものであります。聖書には同じような経験をした人々の例で満ちています」 と続きました。
創世記37章から50章のヨセフの物語を通して、お話は始まりました。
信仰の父と聖書で言われているアブラハム。その息子イサク、イサクの息子ヤコブ。ヤコブには4人の妻と12人の息子がいました。
ヤコブが一番愛した妻ラケルの息子をヤコブは溺愛します。
昔むかしの聖書の時代に限らず、どの時代においても、どこの国においても、どの家族においても、親が特定の子を溺愛し、特定の子を疎んじるということ、残念ですけれど、しばしば、あることですね。勿論、そうでない親もいますけれども。
表向き、平和に見えても、一族の中で熾烈な火花が散っていたり、互いの心が冷え冷えしていたり・・・。
さてヨセフは17歳の時に、10人の兄たちから、エジプトに降っていく隊商の人に売られてしまうのです。
ヨセフの不幸な人生の始まりです。そして、エジプトでは三度もヨセフは人の裏切りに出会います。
「心が折れそうな出来事にあっても、聖書には『ヨセフは落胆した』とは書いていないのです。普通の人は、一喜一憂するものですが、ヨセフはしていない。いたって前向きである。なぜか?聖書にはその理由が書いてある。『主がヨセフと共におられた』からだと。」
この牧師の言葉に納得。もし、ここで、緊急の連絡が入って、礼拝の途中で抜け出さざるを得なくなったとしても、一番大事なところを聞いたから、中座しても、悔いはないなあ、とさえ思いました。聖書の『主がヨセフと共におられた』というところに赤線を引きました。
牧師は、尋ねました。「人はなぜ、どうして?とつぶやいてしまうのでしょうか?」
そして、答えを言われます。「人間は初めから終わりまでを見通すことができたなら、神様が前もって全体像を見せてくださったならば、落胆することはないでしょう。しかし、それは、あり得ないのです。神様はご自身の計画を初めから人間にはお示しになりません。後になって示されるケースが多いのです。私たちの経験する出来事は、私たちの期待する形で行われるものでもないのです」と。
いいえ、ほぼ、自分の計画通りに、思い描いた通りに、人生が展開していく人も多いことを私は知っています。
そして人生は不公平だ、と思ってしまいます。順風満帆の人の中には、幸運は自分で引き寄せ勝ち取るものだと、言う人たちもいます。
危機をチャンスに変えていく人たちもいます。生き馬の目を抜くような弱肉強食の世の中で、悪状況を逆手にとってく成功していく人もいます。
新型コロナウイルスの感染拡大は、災いと言っていいでしょう。
コロナ騒ぎは、人間社会のもろさと、人間の罪深さをあぶりだしました。
でもそのことは、社会の在り方、人間としての生き方を考えよというシグナルにもなりました。
こうしたものの見方は、キリスト者でなくても、世の中を大局的に見ることの出来る人たちの共通する意見です。
そうした見解をはるかに超えるものの見方として、エレミヤ書29:11「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」を引用して、牧師は以下のように語られました。
「今日、多くの人々が負の影響を受けている新型コロナウイルスの感染。でも神様は感染の広がりを御手をもって防がれませんでした。それとは反対にこのような状況を敢えてお許しになられたわけです。このようなことを言うと、世の人々はびっくりされることでしょう。しかし、私たちは新型コロナウイルスのパンデミックにも神の御旨があると信じているわけです。」
私は思わず「アーメン!」と後ろの席から、声を発してしまいました。
そして最後に旧約聖書のヨブ記から、御言葉をくださいました。
ヨブ記36:15
神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。(新共同訳)
神は苦しむ人を、その苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。(口語訳)
神は苦しんでいる者を、その苦しみによって救い出される。神は彼らの苦難によって、ご自身を彼らに現される。(英訳聖書・直訳)
マラナ・タ
私は、このヨブ記36:15の聖句を神様から頂いたことを感謝しました。
ルカによる福音書6章10節がひらめきました。
「あなたがた貧しい人たちはさいわいだ。神の国はあなたがたのものである」