ごきげんよう!さわこです。

 

今朝、7時、南天の空高く、月齢20.0の月がかかっていました。

明日は、月齢21.0下弦の月です。

 

 

100日の祈り第40日目のタイトルは、「見ないで信じる」です。

 

引用聖句はヨハネ20:29
「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」ヨハネ20:29

 

EGホワイトの文書から

以下

 

信仰とは感情に関わらず、ただ言葉どおりに神を受け入れることです。

 

自分の仲間を信頼するのに、なぜ神の言葉を信頼できないのでしょうか? 

私たちが知恵や恵みを求めて神のもとに行くときに、自分の感情が高められる経験が神の助けの証拠であるなどと思うべきではありません。

 

感情は決して基準ではないのです。

クリスチャンが感情に根拠を置くときに、大きな間違いが起こります。

 

では、キリストが私の祈りを聞かれることをどのように知ることができるのでしょうか?

それは、神の約束によってです。

求める者が神に向かって叫ぶときに、神はその願いを聴かれるのです。

私は約束に信頼します。

 

私たちが光のうちを歩むなら、はばかることなく厳かに恵みのみ座に進み出ることができます。

生きた信仰によって、神の約束を添えて私たちの願いを差し出すことができます。

私たちがたとえ弱く、過ちも多く、価値のない者であったとしても。

 

御言葉が、助けてくださると約束しているではありませんか。

『御霊もまた同じように弱い私を助けてくださるのです。』(ローマ8:26)

 

一度神に願ったなら、それをあきらめるべきでなく、ヤコブが一晩中天使と争ったように『私を祝福してくださらないならあなたを去らせません』と言うならば、彼のように打ち勝つことができるのです。

 

                            以上

 

聖書を読んでいても、

神様の約束を読んでいても、

理解しようとして、立ちはだかるのは「個人の感情」

 

自分の思いを、投げ出して、

神様の約束(聖書の御言葉)を信頼しない限り、

感情は「わたしを見て、わたしを見捨てないで」とすがりつく曲者なのだから。

 

マラナ・タ

昨日、夕方、恒例のwalking

 

青空に雲がきれい。

 

川では白鷺が。