ごきげんよう!さわこです。

 

 

ある日の、「十人のおとめたち」の対話から。

 

A、聖霊に導かれる祈りは、異言で祈るわけではありませんが、日本語であっても、祈る人によって温度差がありますから、互いに違和感のようなものを感じてしまうこともあるように思います。

 

B、そこで、互いに御霊に導かれ、御霊に祈らされる祈りに与れますようにと秘かに祈るところから始まらなくてはならないのじゃないかと思います。

 

C、人がどんな良い計画をしても 人物が居なければ 何も起りません。
人間が 計画しなくても 人物が居れば 神様のみ旨がなされていく のだと思います。
聖霊様が なさるのだと思います。


D、ですから 人の心を育てるのが一番大切な事だと思いますが、それも 神様に育てていただかなければなりません。ですから、先ず 聖霊様を求めましょうと祈ることになりますね。

 

E、「起きよ、光を放て!主は来たりたもう」
十人の乙女は皆、眠っていました。みんな寝ていてもいいのです。

寝ていても、起きれば良いのです。

問題は、起きたけど足りないもの。それです。

 

F、足りないものを求めるなら、「求めなさい、そうすれば与えられる。」のですから、求める祈りが大切ですね。


G、十人のおとめのうちの、油の足りなかった5人は、普段の生活で油が少しでも平気で過ごしていた人達だと聞きました。油とは、聖霊の神様の象徴ですから、聖霊さまの囁いて下さるお声を心に留めて過ごしていきたいと切に祈ります。

 

H、聖霊の足りないことに鈍感になっていたり、気にもならなくなっていたりすることは大問題ですね。

ですから、こうして、分かち合って励ましあうことが大事ではないでしょうか。

 

I、私たちには、足りないことがたくさんあります。

困り果てて、現実的な目の前の助けを求めるお祈りばかりになってしまいます。

その挙句に、自分の望む形で願いが叶えられないと、神は本当にいるのだろうか?

神が愛とは本当だろうか? 疑いすら抱きます。聖書の中で、あれほどイエス様が聖霊を求めよと言っておられるにもかかわらず。だから、罪びとなのかもしれません。

 

J、私たちの祈りが聖霊を求めて祈ることによって、自分中心の祈りから、神様中心の祈りへと変わっていかなくてはならないのだと思うようになりました。


K、ひとりも迷うことなく再臨の準備をしていけますようにと祈ります。

 

 

マラナ・タ

AさんからKさんまで、ちょうど10人のおとめたちによる分かち合いでありました。

5人は賢く、5人は愚かであったということのないように、10人ともご再臨のイエス様をお迎えすることができますように。常に信仰を分かちあって祈り合って、支え合って、助け合って、いきたいと祈ります。