ごきげんよう! さわこです。
近くの川には白鷺が棲んでいます。
シラサギだけでなく、アオサギも、トンビも、ムクドリもヒヨドリも、セキレイも。もちろん、スズメや鳩といったどこの町にもいる鳥も。
さて、4年前に書いた記事ですが、修正しつつ再投稿します。
「言霊についてどう考えていますか?」との
若い信仰の友の質問に対しての私の答えです。
言霊とは、古代日本では、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力をいい、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされてきました。
そこで、言葉には「霊が宿る」「魂が宿る」と多くの日本人は、昔からなんとはなくそう信じているように思います。
さて、聖書では、創世記1章では神が「光あれ」と言われたことから始まって、「天地万物は神の言葉によって成った」とあります。
このように神の言葉には、無から有を生み出す力があることが分かります。
またヨハネによる福音書は「初めに言があった」で始まっています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によってなった。成ったもので言によらずに成ったものは何ひとつなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:1-5)
この「言」はイエス・キリストご自身を指しています。
さて、EGホワイトの「各時代の希望」中巻33章には、
EGホワイトの「言霊」についての考えがよくわかる記述があります。
以下 青字にて引用します。
聖霊に対する罪についてのキリストの警告と密接な関係があるのは、むなしいことばや悪い言葉に対する警告である。
ことばは心のうちにあるものを示す。
「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。」(マタイ12:34)
しかし、ことばは、品性をあらわすだけではない。
ことばは品性に作用する力を持っている。
人は自分自身のことばに影響される。
サタンにそそのかされ、一時の感情にかられて、ねたみや悪い憶測などを口にし、本当に信じてもいないことを口にする。だが、口に出したことばは考え方に作用する。
自分の発したことばにだまされ、サタンにそそのかされて語ったことを事実として信ずるようになる。
一度、意見や決心を口に出してしまうと、面目にこだわってそれをひっこめることができないことが多く、ついには自分が正しいのだと信ずるようになる。
疑いのことばを口に出すことは危険である。
すなわち、天来の光を疑ったり、批判したりすることは危険である。
不注意で不敬な批判をする習慣は品性に作用し、不敬と不信の念を助長する。
この習慣をほしいままにしていた多くの人が、危険をいしきしないで続けているうちに、ついには聖霊の働きを批判したり、拒んだりするようになった。
マラナ・タ
EGホワイトの見解は、日本的言霊思想と、相通じる部分もあるようですね。