ごきげんよう!さわこです

 

昨夜遅く、新約通読箇所を読みました。

さらに、EGホワイトの預言の霊の言葉をスタディバイブルで確認しました。

 

 

使徒行伝9章スタディバイブル旧約283ページより

 

ダマスコへの道で迫害者であったパウロは目が見えなくなりました。

パウロはキリストの幻を見て回心しました。

 

彼は見るために見えなくされたのでした。

 

盲目であった3日間彼は沈思思考の時を持ち、望みのない自分を赦し、義とすることのできる唯一のお方であるキリストに自らをゆだねたのでした。

 

主はいつも、ご自分の働きを人間の代理者にお与えになる。

ここに神と人間との協力がある。

 

与えられた光に従い、神と協力するのが、人間の仕事である。

人間がその目的と決意の時を、神のみ旨と方法に傾けることは、困難で厳しい戦いである。

 

行動は、感情や好みに従うのではなく、天の父の御心に従うものである。
聖霊の導きに従って服従するのです。

 

 

使徒行伝10章、ここはイタリヤ部隊の百卒長コルネリオとペテロの出会いが記されています。

スタディバイブル284-290ページより抜粋 

 

・魂を救う働きに従事している者たちにとって天はずっと近い。 

 

・コルネリオの真面目な心からの祈りは主の御前に届き覚えられていた。

 

・祈りにも施しにも、それ自体には罪人の救いには何の力も価値もない。

ただ、キリストの贖いの犠牲による恵みだけが、人の心を新たにして、その奉仕を神に受け入れられるものとする。

この恵みが、コルネリオの心を感動させた。

 

・キリストの霊がコルネリオの魂に語りかけた。

イエスが彼を引きつけ、彼は引き寄せられるままに身を任せた。

  (個人的な体験として、私にもそれがあります。引き寄せられるという神の求心力の強さ不思議さ、感情ではない、理性でもない、神の霊の力、神の愛の求心力と言えるのでしょうか。私にとっては、コリント第一10章13節がそうでした。)

 

 

・主は、我々一人一人を名前で知っておられる。

どこに住み、どんな思いを持っているか、あらゆる行動を知っておられる。

 

(クリスチャンとなってからも数年おきに、「わたしはあなたを知っている。あなたの今の苦しみも悲しみも知っている」との語り掛けを聴いて来ました。だから、キリスト信仰から離れなかった。この語り掛けは、聖書を読む、デボーションを深める、そうした祈りの生活をしなくても、体験する人もいるのかもしれませんが、私の場合は、それらを抜きにしてはあり得ないのです)

 

 

・仕える御使いたちは、我々が個人的な義務において忠実であるかどうかを注意深く記録しながら、教会を通過している。

 

・熱心に求める者は暗闇に取り残されることはない。

 

♬小さな野の花でも 主の愛を受けてかがやく 

あふれる主の恵みは いついつまでも~♬

 

 

♬ばらは ばらのように すみれは すみれのように 

わたしもこのままの姿で ついて行きます♪

 

・神はご自分が指名なさった魂を助ける代理人をお用いになる。

 

・神を畏れる人々の祈り、神に対する責任を認める人々の祈りはきかれる。

 

(この「きかれる」という表現は、神の耳に届いている、神が耳を傾けて聞いてくださっている、という通りであって、自分のん願い求めた通りに祈りが適うという「きく」ではないことを覚えていなくてはならない。どういうきかれ方で祈願成就するのかは、「神による」のです。○○であってほしいと熱心に諦めないで祈り続けたから○○となりました。ということだけが「あかし」となると勘違いしてはならないと思います)

 

 

・主は、神がお与えになった光の中を歩み、その行いによって神に栄光を帰そうと努めていることを示している人々に、神は注目しておられる。

 

(私たちは、自分の思うままの生き方をするのではなく「神の光の中」を生きることをしなくてはならない。神が私に「見せよう」としておられることを、見えなくてはならない)

 

マラナ・タ

昨夜、書いた文書をワードから、ブログに張り付けています。

撮り集めた写真と共に、デボーションから与えられた気づきや思い出も込めて。

「ワード」が、私のデボーションノートになって何年経つのだろう。