ごきげんよう!さわこです
聖書通読 ルカによる福音書18章より
(スタディバイブル新約184ページ)
人は、自らの救いの理由として、自分の善行を提示することはできない。
我々はキリストの功績を通してのみ受け入れられる。
我々のなす慈悲の行いや愛の行為は、信仰の実であって、これらは我々にとって祝福となる。
なぜなら、人はその仕業に応じて報いを受けるからである。
我々の善行を神が受け入れてくださるのは、キリストの功績のゆえである。 我々の行為そのものに功績はない。
善行は、罪をゆるす神の愛が働いている結果に過ぎない。
善行は我々に何の手柄ももたらさない。
救いは、信じる者に与えられる神の無償の賜物であり、ただキリストのためだけに、与えられるものである。
悩める魂は、キリストに対する信仰によって平安を見いだすことができ、その平安は信仰と信頼に比例して与えられるであろう。
マナラ・タ
「信仰による義・恵みによる救い」
ルターの宗教改革以降、強調されるこの神学
このフレーズ、善行を否定しているのではない。
善行がキリストの代わりにはならないことを強調しただけ。
「行いによる義」とは、善行を無意味だと言っているのではない。
あたりまえよね。当然だよね。