ごきげんよう!さわこです

今朝、7時の北山、雲一つなし、快晴

 


昨日の通読詩篇107-108編 

夜になって、ようやく読みました。

 

107編は43節ありますが、
(6.13.19.28節)は同じ。

「彼らはその悩みのうちに主を呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い」

 

(8.15.21.31節)は同じ。

「どうか彼らが主のいつくしみと、人の子になされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように」

 

悩みの時には、悩みのあるままに、神様を呼びなさい。神様は、悩みから救ってくださいます。

 

このことが、107編の中で、4回も繰り返されています。

それほど大事な祈りの姿勢だということ。

 

神様は「悩みから救う」と言っておられるのであって、「自分の願い通りに悩み事を解決してくださいます」ということをおっしゃってはおられない。そこを、勘違いしないこと。

 

自分の願いがかなえられたとか、願い以上の素晴らしい結果を与えてくださったとか、それを人に語ることが「あかし」だと思ってはいないか?

 

そうではない人もいるのだけれど、「問題が解決したら証しをします」とか、「人さまにお聞かせできる結果を頂いたときに証しをします」と言われる人もいます。

 

成功者のあかしは、

悩み苦しみの渦中に入って間もない人には、励みになるかもしれない。

悩み苦しみの期間が長い人にとっては、聞くことがつらい話かもしれない。

そして、辛いと思うことが罪の性質だとますます悲観的になるかもしれない。

成功者の証しを素直に喜ばない自分を責めるかもしれない。

 

順調なしあわせ人生を語って、神様に守られ愛されていることを語り、それに合わせた聖句を添える証しもあれば、自分の恥ずかし人生の日々を茶化しながら語ることで、罪から救い出された話とそれに合わせた聖句を添える証もある。

人は、人の隠された打ち明け話が好きだから、共感を呼ぶ。人間の感情にぴったりくるから。

 

証とは、成功談、失敗談だろうか。どちらにしろ経験談だろうか。人前で話す訓練だろうか。

聖書に出て来る証とは、イエス様のこと、イエス様の存在そのもの。

イエス様と自分人生の関わり交わりからこぼれ出る、あふれ出る神様への信頼を語ることが「証」だと思って来た。

 

「主のいつくしみと、人の子になされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように」

とは、何に感謝をすればよいのかを詩編が教えてくれています。

神様を知ったから成功した。

神様を知ったにもかかわらずうまくいかない人生。

 

自分に焦点を当てている限り、主への真実の感謝が湧くだろうか。

主の慈しみを知ること、イエス様がなされたくすしき御業を感謝するようにと、

神様に焦点を合わせない限り、感謝の思いには罪の陰さえある。

 

詩編107編についてのスタディバイブル 旧約脚注827ページには、以下のようなことが書かれていました。

歌は失望するときにいつでも用いることのできる武器である。(まことにアーメン、体験してきました)

1テサロニケ5:18「すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」

この命令自体が私たちに不利に見えるときでも、私たちの益となるという確証である。

神は私たちに害となるものに対して、感謝の念を抱けとはお命じになっていない 。

 

この脚注を読んで、目から鱗が落ちました。

自分の上に善き結果があらわれなくても、いかに不利な状況に置かれていても、神ご自身が私たちの益となるように計らってくださることを確証していいのだよ、だから、そういう神様に感謝しなさい。

と、そういう意味だったのです。

 

悪意を持ってひどい目にあわした人にも感謝するのかい?

家族や大切な人を殺した人にも、その行為にも感謝をするようにと、ススメるのかい?

そういう人を愛し赦すのがクリスチャンのあかしとでも言うのかい?

なんでもかんでも、害になることまでも、感謝しなさいとのオススメかい?

 

「神様は常識を超えておられます。神様の愛は深いのです。神はすべてのことに感謝しなさいと言っておられるます。それは神様のご命令ですから」 と言われたなら、

 

「そりゃ、ごもっとも、おそれいりやのきしぼじん(恐れ入り谷の鬼子母神)そんな理不尽なことを命ずる神様にゃあついていけないよ。そうできる人にならなきゃ天国には入れてもらえないのかい?」 

 

なんて落語っぽく茶化してしまう人だっているだろうなあ・・・

そんなことも、しばしば、感じていたものですから、昨夜は脚注をじっくり読み耽って、目から落ちた鱗をゴミ箱へ。

もう一度、引用します。

1テサロニケ5:18「すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」この命令自体が私たちに不利に見えるときでも、私たちの益となるという確証である。神は私たちに害となるものに対して、感謝の念を抱けとはお命じになっていない 。

 

「万事を支配しておられる神様に全幅の信頼をおいて生きよ、あなたの人生で出会った人への感謝も赦しも愛も神様がくださるよ」

そういう意味であって、全てに感謝とは、悪意や悪事にも感謝の対象ですよ、ではないのです。

とあらためて確認した昨日の聖書通読でした。

 

 

マラナ・タ

祈りを終えて、日が昇る。7時20分