ごきげんよう!さわこです

夕方の散歩

落葉樹のこうした景色は冬ならではの期間限定の風情

うつくしいなあと思ってついつい写したくなる。

 

 

①あなたの身にプレッシャーがかかるとき、逃げ道を作ろうとする誘惑に抵抗しよう。

あなたのストレスの原因をどう処理するか助けてくださる神の力と知恵に焦点を合わせよう。

 

 

②私たちは、自分にひどく甘い反面、自分に対して最も批判的でもあると思う。

そんな自分から、一生離れることはできない。

辛い時ほど、憐れみに満ちた神と共にあることを覚えておきたいものだ。

私たちは常に、主イエスに繋がるがゆえに、全能の神の愛と憐れみの内にあるのである。

 

 

③キリストがシナイ山で語られた聖なる十戒は神の品性についての啓示であり、神が全人類を支配されるお方であることを世に知らしめるものであった。その内容は「従って生きよ」である。
従って,とは、神の御声をよく聞いて、しっかり聴いて、自分勝手な解釈や、神以外の声に耳を傾けることなく聞け、ということだ。

 


④「主は、ご自分の被造物を守る壁としてその聖なる戒めを与えられた」
十戒は、私たちを守るためのもの。

規則とは縛りつけ不自由にさせるものではなく、神が本来与えたもうた自由を維持するもの。

 

 

⑤世の精神とキリストの精神との間には大きな違いがある。前者は自己を追求すること、終わりの日の火によって滅ぼされる宝を求めることにつながる。後者は自己否定と自己犠牲、決して朽ちることのない宝を求めることにつながる。

 

 

⑥信仰によって受ける聖霊は、かたくなな心を打ち砕いてくださる。

これは、真理による清めの魂であり力である。

愛の実践を伴い、心を清める信仰の源泉である。

 

 

⑦神の御言葉を読むだけでは十分ではない。

聖書は私たちを教えるために与えられている。

私たちはそれを注意深く、入念に調べるべきである。

聖書を、各部分を比較しながら学ぶべきである。

聖書は聖書を解く鍵である。

私たちが読み、学び、祈るとき、聖霊が私たちの理解を助けて、御言葉の深い真理を理解させてくださる。

 

 

マラナ・タ

私たちが聖書を読まず、学ばず、祈らずにいるならば、バプテスマを受けてクリスチャンになったといっても、御言葉の深い真理を理解できるだろうか。

瞬く間にサタンの陣営に引きずり込まれてしまうのではないか?

 

では、聖書を読めない、文字を読めない、書けない、話せない、知性で理解できない人は、神様を理解できないとでもいうのだろうか。

勿論、否です。

神様を求め神様を信頼するたましいの人は、読み書き思索とは違う方法で、神様は教えてくださると信じています。

その人なりに祈る美しい姿を見てきました。

 

このメモが言わんとすることは、読み、書き、思索の能力があるにもかかわらず、その能力を神様を知るために用いようとしない人への叱咤激励なのです。譴責なのです。出来る能力があるにもかかわらず、出来ないふりを装うのは、謙遜でも何でもない。へりくだりでもない。弱さのアピールでもない。