ごきげんよう!さわこです

 

 

安息日学校聖書研究ガイド 2020.2.14

ヘブライ11章によれば、信仰の英雄には、ダニエルのように死を逃れた者たちだけでなく、苦しんで勇敢に死んだ者たちもいることを私たちは覚えておくべきです。

生きてあかしをするように神に召される人もいれば、死んであかしをするように召される人もいます。

それゆえ、ダニエルの救出物語はすべての人が救い出されることを意味するものではありません。

ダニエルの奇蹟的な救出は、神が支配しておられ、御自分のすべての子らを、死と罪の力から最終的に救い出されることを示しています。

 

 

・・・私のデボーション
この信仰者たちの違いは何なのか?   
私が長年疑問に思い続けてきたことです。 
もしかしたら、その人の信仰のあり方によるのだろうか、と考えたこともありました。

①バプテスマを受けたか、受けなかったか?
②行ないが神様のみこころに適ったか、適わなかったか?
③神にゆだねきれたか、ゆだねきれなかったか?
④予め神に選ばれていたのか、そうでないのか?
⑤安息日を、何もしないことで遵守したか?
(仕事しない、家事全般しない、完全菜食、あるいはレビ記11章の食規制に忠実など)

 

愚問だらけでありますが、そのように誤解しかねない聖句もありました。
そこで、疑問は横において、聖書通読、礼拝、安息日学校、祈祷会、聖書研究会、講演会、セミナー、証の書など信仰書、あらゆる機会を捉えて、聖書を包括的に理解しようと努めました。


そうした神様の真実を求める探索の信仰の旅は、

不信仰なのか? ゆだねきってない証拠なのか? 救いの確証のなさを露見しているのではないか? 

そういう自問自答もありました。


現世の、この地上人生での、福音を信じながら、この不公平、この理不尽さは、何なんだ?

こうした疑問を持った格闘を、ゆだねていないからだ、とか、恵みによる救いを信じていないからだと、考えるのではなく、祈りなさい、と祈りの足りなさをアドバイスしてくれる人もいました。

救われていないことへの不安、天国に入れない不安、などではないことを強調しておきます。

 

考えることも祈りです。質問することも祈りです。

神様の御前で神様に語りかけるなら、祈りは神様との会話、対話、イエス様の懐の中にいることなのだ、といつからか体験できるようになりました。

 

イエス様と過ごす時間が長くなって来たからです。

朝夕だけでなく、一日の隙間時間は、思考力と瞑想・黙想のうちにイエス様とある生活。

気づけば、讃美歌を歌っています。曲選びは聖霊様がなさいます。

 

そして、私の疑問への答えは、神様の神秘の領域であり、文章化するなら、

本日の安息日ガイドに書かれていることそのままです。

 

 

詩編73:16,17

ここで、私の疑問は氷解しました。

「わたしの目に労苦と映ることの意味を

知りたいと思い計り

ついに、わたしは神の聖所を訪れ

彼らの行く末を見分けた」

 

マラナ・タ

「聖所とは、キリストの十字架のもと、神との交わりを続けた結果。最後には神の義がなる」という書き込みが聖書にありました。

 

「ダニエルの奇蹟的な救出は、神が支配しておられ、御自分のすべての子らを、

死と罪の力から最終的に救い出されることを示しています。」

とのガイドの記述と一致しました。