屋上に上がって西方の方角に向かって座る、今朝の777の祈り。

エルサレムは日本の西にあるから、とにかく西を向けばその延長線上にはエルサレムがあるのだ、とのお粗末な単純な発想。

 

今朝もひざまずいて神様に感謝をお捧げしました。

神様、いつも私を導いてくださりありがとうございます。

私をお支えくださりありがとうございます。

母の胎内で私をかたち作ってくださり、命を与えてくださってありがとうございます。

私の髪の毛の一本に至るまで私を知っていてくださりありがとうございます。

忍耐強くない私に忍耐を与えてくださりありがとうございます。

あなたを信じる信仰を与えてくださってありがとうございます。

 

次々と感謝をささげながら、愕然としたのでした。

神様、私に○○してくださってありがとうございます。

何度「私」が出て来ることだろう。

「私」の感謝は、「私が基準」になっている。

何と私は、「我」の強いことか・・・。

 

神様を見上げながら、実は「私」が中心にある。

感謝の祈りと言いながら、「神」への感謝というよりも、「神が私にしてくださったこと」に焦点が当たっていると気が付いたのでした。

 

「自己中心の罪人」の発見でした。

「神を私のために用いようとしている」私の発見でした。

さめざめ泣きました。

「主よ、この罪びとを憐れんでください」と祈りました。

「父よ、この罪びとをお赦しください」と祈りました。

 

私があなたさまを愛するのは、あなたさまが私を愛してくださったからでしょうか。

あなたの愛を、実感として受け取ることが、難しすぎると思われる時もあります。

そんなときでも、あなたさまにおすがりできるので、私は幸いなものなのです。

あまりにひどい状況にあるとき、神様の導きとも思えないとき、それでも途中経過にはこうした狭いいばらの道もある。神は意味もなく無為にこの試練をお許しになるわけはない。

神様の時間も、神様の愛も、私の尺度で計ることができないのだ・・・と。

 

「それでも、わたしを信じるか。それでも私について来るか。」

「はい、主よ。あなたが私にどんな良いことをしてくださったから愛するのではなく、あなたが私の創造主であり贖い主であり、あなたがあなたであるゆえに、あなたが聖なる聖なる聖なる主であるゆえに、あなたが私にあなたを愛するようにしてくださったゆえに、あなたに感謝と讃美をおささげいたします」と祈ったのでした。