ごきげんよう!さわこです。

 

 

「今日の光、2019年11月1日」を読んで、私のデボーションです。    

「全てのクリスチャンが天来の光に照らされて、

光と平和の霊的雰囲気に包まれることがキリスト様の目的であり、

そのために備えをしてくださいました。

それは五旬祭の日に聖霊を注ぐことによってでした。

人々が、自己を捨てることで、聖霊が心に働いてくださいます。

弟子たちが、完全な一致に導かれ、

もはや最高の地位を求めて弟子たち争わなくなった時に、

初めて聖霊が注がれました。」

「今日の光」の始まりの数行を要約するとこのようになります。

 

弟子たちが完全な一致をする、その時まで、聖霊は注がれなかったのか?

天地創造の時、霊が水の表を被っていたとあるのに・・・?

聖霊降臨は、五旬祭(ペンテコステ)まで、待たなくてはならなかったのか?

このような疑問を、聖書を根拠に考えました。

私は、繰り返して読みながら、理解を整理しました。

 

イエス様は、十字架の死のあと復活なさり、昇天して天の聖所にお帰りになりました。

そして1844年10月22日に天の至聖所にお移りになられました。

今もイエス様は天の至聖所におられます。

 

ヨハネによる福音書14-16章で、

イエス様は天にお帰りになったら、助け手として聖霊をお降しになるとお約束なさいました。

使徒言行録2:1-4

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると…・すると一同は聖霊に満たされ、

”霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。

弟子たちは、イエス様の昇天後、ひと所(二階の座敷)に集まって、約束の聖霊を求めて10日間祈っていました。

 

イエス様の十字架は過越しの日に行われました。(イエス様は過越しの犠牲の子羊なのですから)

人の子として地上人生を歩まれたイエス様が亡くなったあと、弟子たちが困惑しないように、

イエス様は助け手として、聖霊(キリストの御霊)を、生前に約束された通りにお降しになられたのです。

(父、子、聖霊、三位一体の神)

 

その日が、過越しから50日目、五旬祭に当たります。

五旬節に聖霊が降ることはすでに約束されていたのです。

何故なら、主の例祭、神から守るように定められているのですから。

 

さて、聖霊様のお働きは、私たちを助け、強い影響を与えます。
キリストの御霊である聖霊は、人々に自我を捨て去り、明け渡すようにと影響を与えます。

 

 

私たちは、聖書研究の時「先の雨、後の雨」という言葉をしばしば聞いて来ました。

先の雨は種まきの後、植物の芽を出させる。

後の雨、植物の収穫にあわせての豊かな成長のために、神様が降らせてくだる。

 

 

稲栽培は、春に蒔き、秋に収穫ですが、麦栽培は、秋に蒔き、春に収穫。

イスラエルの農業は麦ですから、先の雨は秋の雨、後の雨は春の雨となります。

日本人にとっては稲作農業ですから、こんがらがるのね。

 

個々の人々に働くこの聖霊の働きを「先の雨」と表現されるのだと理解できました。

そのように、人格が(心が)変革し革新し、真に回心した人々が、どんどん増え集まり、

ばらばらだった状態から、一つに導かれて真に一致したとき 「初めて聖霊が注がれ」た、とあります。

個々に注がれた「先の雨」が、今、ここで、弟子たち信者の一致として「後の雨」と表現される。

 

個人個人に注がれ個人的影響をもたらす先の雨。

全体に注がれ沢山の回心者をもたらし、一つの人のようにならしめる状態の後の雨。

五旬祭に降った雨は、その意味では後の雨であります。

しかし、それはまた、これからの時代、イエスの再臨直前に降る魂の収穫のための後の雨に対して、

五旬祭に降った雨は先の雨となります。


五旬祭(ギリシャ語でペンテコステ、ヘブライ語では、シャブオット)に降る雨は、

先の雨であり後の雨であるという二重構造になっていると、だから、混乱するんです。(私だけかもしれないけど)

 


私的には、今日の光を読みながら、整理がつきました。(今ごろに? はい、やっと)

後は、分かりやすく、説明できるようにならなくてはなりません。

 

そのためには、私自身が自分を神様に明け渡し、謙遜な心を頂き、

真摯に御言葉に日々向き合うところから始まるのです。

それを個人的リバイバルと呼びます。

 

個人的リバイバルが起きなくては、始まらない。

御言葉(ロゴス)が、個人的な御言葉(レーマ)とならなくては始まらない。

その時、私に先の雨(聖霊)が注がれる。

 

日々、御言葉を通して、イエス様に繋がり続けることで、

絶え間なく聖霊の雨(先の雨)を受け続けなくてはならないのです。

それを怠るなら、私たちの信仰(霊性)は干上がるのです。

惰性となる。単なる習慣となる。ただの儀式となる。

信者の交わりが単なる社交の場となり、語り合いも世間話と区別がつかなくなる。

 

日々聖霊を受けることは、後の雨を受けるために必要不可欠の備えです。

その継続こそ、恵みの扉が閉じられるまでに為すべきクリスチャンの日々の務めではないでしょうか。

 

マラナ・タ

この日の「今日の光」には、「先の雨・後の雨」とは、書かれてはいませんでしたが、

「聖霊は心に働く、聖霊が注がれる」 とでてきます。

聖霊を雨と表現しますから、このようなデボーションへと導かれました。 感謝