ごきげんよう!さわこです。

「個人的リバイバルへの道」  この読み物から、

順次、証しを織り込みながら、書いて行くことにしました。

 

昨日、教会(ダニエル書勉強会)からの帰り道。

橋の上から見る山並みのグラデーションが大好きです。

私の住む町は四方を山に囲まれています。

 

 

 

また、旧制第一中学校の銀杏並木も大好きです。

その昔、父や義父、伯父たちの通った学校の銀杏の木。

その隣には、その昔、祖母や、母や伯母の通った女学校。

そして、戦後は従姉や私の母校。

この2つの学校の間の道は、明治・大正・昭和の若者の歴史を知っています。

 

            

 

今朝は雨。祈祷会には自転車では行けません。

バスですから、この道は通れない。

 

昨日、信仰の姉妹から「個人的リバイバルヘの道」

という60ページにも及ぶ読み物を頂きました。

深い感動を持って読んでいます。

 

求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。

聖霊に満たされるためには、私たちが「行動」を起こす必要があります。

私たちが聖霊を求めるのは、一度切りのことではなく、

求め続けるようにキリストは意図しておられます。

キリストは温かな招きを通して

私たちの心に聖霊を求める思いを起こさせようと願っておられます。


もし、聖霊に満たされることを

私たちが求め続けないならば、

それはキリストに従うための重大な何かが

決定的に欠けているということです。

 

キリストは私たちに、聖霊が絶対に必要であることを理解させ、

聖霊の豊かな祝福を経験し続けてほしいと願っておられるのです。

 

 

昨夜と今朝、いつもの聖書通読の後、読みました。

(長いので、まだ三分の一も読んでいません)

 

ヨハネ福音書14~16章

マタイ12:31, マルコ3:29, ルカ12:10  

ルカ11章の「主の祈り」真夜中の友の訪問の譬え話・・・

次々と思い起こされ、聖句を確認しました。

 

    

 

今朝は雨。

777の祈りに屋上に上がりましたが、物干し場にまで雨が落ちて濡れました。

早々に引き上げて室内に。

先の雨、後の雨、聖霊様が雨に例えられることに思いを向けました。

 

 

聖霊によるバプテスマとは何を意味するでしょうか。

安息日学校聖書研究ガイド2014年3期『イエスの教え』23ページの説明が引用されていました。

  

「聖霊によるバプテスマとは、

聖霊の影響下にすっかり入ること、完全に霊に満たされること。

一度切りの体験ではなく、

絶えず繰り返される必要のあることである」

と、エフェソ5:18から説明されています。

 

アーメン。アーメン。

一般信徒には関わりのないことであるかのような、

特別に召された選ばれた信徒に限るものであるかのような

印象や意見を持つ人たちもいますが、

そうではないと理解できます。 アーメン。

 

 

    土手に咲く野ぼたん、この紫が好き。

    義母の形見分けにもらった着物の色。

 

 

 

30年前、バプテスマを受けるころ、

私の聖書研究のお付き合いをしてくださっていた信仰の大先輩から、

(私の母校の大先輩でもありました)

 

「バプテスマを受けたら到達点ではないのよ。

ここからが始まりなの。日々、バプテスマを受けなくてはならないの。

毎日、イエス様に自分の心に入って頂かなくてはならないの。」

 

そして、聖句を暗誦することや聖書通読の大切さや、

安息日には、11時からのお礼拝にだけ出席するのではなく、

9時15分からの讃美歌礼拝、

9時半からの安息日学校の聖書の学びに参加することの意義をお聞きしました。

 

安息日に教会に行こうと決めた時から、

何か大きな力に背中を押されて、手を引っ張られるようにして、

9時15分までには、到着していましたから、その継続でありました。

 

この何か大きな力が、聖霊様のお働きなのだと分かりました。

自分の意志をはるか超えた力強い喜びに満ちたもの。

 

バプテスマの1年以上も前、

「聖書を読みもしないままに、キリスト教を嫌っているのはどうだろうね?」

という思いを起こしてくださったお方が聖霊様であったとわかりました。

 

マラナ・タ

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

                          (フィリピの信徒への手紙2章13節)