ごきげんよう!さわこです。

 

1990年10月20日バプテスマに与りました。

あれから・・・29年。

 

今朝、西空に、昨夜の月が名残惜しそうに半分欠けてかかっていました。下弦の月。

 

 

東の空には太陽が昇ってきました。

 

 

 

天を見上げて祈りながら、創造週の第四日目を思いました。

 

創世記1章14-18節

 

神はまた言われた、

「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、

しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、

天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」

そのようになった。

 

神は二つの大きな光を造り、

大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また、星を造られた。

 

神はこれらを天のおおぞらにおいて地を照らさせ、

昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。

神は見て、良しとされた。

 

夕となり、また朝となった。第四日目である。

 

創造の力が現わされているものは、すべて、神の無限の愛の表現である。

神の統治は、すべての造られたものへ豊かな祝福を与えることを意味する。

地球が創造主の御手によって作られたとき、それは非常に美しかった。

                (EGホワイト著「人類のあけぼの」上)

 

天地を創造されたのは「神」によります。

聖書の神は「父・子・聖霊」三位一体のお方。

この神によって世界は創造されました。

 

イエスは創造主のことを「父」と呼んでおられました。

それでは、神の御子なるイエスは、父なる神から生まれたのでしょうか。

それがちがうのですね。

初めから父・子・聖霊(三位一体)なるお方で初めから一体であり、共におられたのです。

コロサイ人への手紙の中に、そのことが書かれています。

 

コロサイ1:15-17

 

御子は見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先立って生まれたかたである。

 

万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、

みな御子にあって造られたからである。

これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。

 

彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。

 

創世記は、この言葉で始まっています。

1章1-3節

はじめに神は天と地とを創造された。

地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

 

新約のヨハネによる福音書を読んだとき、「創世記の始まりに似ている・・・」と思いました。

ヨハネ1章1-3節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

 

万物は、人間以外の万物は神の言葉によって、創造されました。

ヨハネによる福音書では、言とは、イエスであることが明らかにわかります。

つまり、言によって万物が創造されたとは、イエスによって創造されたということです。

 

私は預言の声聖書通信講座を学んでいる時に、

「ある御言葉」によってイエス・キリストの臨在にあずかりました。

その御言葉は、コリント第1 10章13節

「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道もそなえてくださるのである。」

 

その体験がありましたから、はじめて、ヨハネによる福音書を読んだときに、「言」は神であった、という事実が、真実として理解できました。

 

生ける神キリスト様に出会ってしまったのですから、その瞬間に、聖書の神は私の神だと受け入れざるを得なかったのです。


「わたしはあなたを見ていた。あなたの哀しみも苦労も全部見ていた。もう大丈夫だ、わたしがあなたと共にいる」

言葉として明確に聞こえたのではないのですが、(私のことばで翻訳するとこのようになるわけです)

そういう言葉と共に優しく全身全霊が抱きしめられたことがわかりました。

家族が眠りについたリビングで、通信講座のテキストと聖書を前にして泣き続けました。30年前の秋の夜。

 

ようやく、涙が止まった時、「この聖書通信講座を発行している教会に行ってみよう」

行きたい、行かなくちゃならない、そういう思いが湧きあがってきました。市街地図をひろげて、教会の場所を確認しました。

 

最後の講座の答案用紙に「11月〇日1時半、訪問させていただきます」と書きこんで封をし投函しました。

仕事の休みの木曜日、それまで通っていたスイミングスクールをやめて、聖書の勉強に通うようになりました。

 

私は、通信講座を学んでいる最中にも教会には行っていませんでした。

行きたくなかったし、行こうとも思っていませんでした。私はキリスト教が嫌いでしたから。

 

そんな私が、「聖書も読んだことのないままにキリスト教を嫌うのはどんなものだろうね?」との思いになったのでした。

その時、チャイムがなって、文書伝道者のご婦人が「サインズ」の更新の手続きにいらしたのでした。

この方にお聞きしたら、「聖書も販売しているかもしれない・・・」

 

ところが、「一人で聖書を読んだって分かりはしませんよ。無料の聖書通信講座がありますから、それをなさってはいかがですか?

教会の聖書をお貸ししましょう」と、言われて、数日後、通信講座と聖書が届いたのでした。

 

そして、年が新しくなった1月から毎週安息日に教会に出席。

同じ年の10月20日、沈めのバプテスマに与りました。

 

 

町中が金木犀の香りに包まれる10月、私は神の家族の一員になりました。

 

キリスト教嫌いだった私が、生ける神キリスト様に捉えられた不思議な物語。

キリスト様に捉えられ続けて、離れられなくなって30年。

 

マラナ・タ

♬ 十字架の血潮もて 我さえあがない 

神の子としたもう 恵みの主をほめん

ああ、主は 十字架にかかりて 

我を救いたもう 恵みの主を ほめん