ごきげんよう!さわこです。
朝の北山
いろんな信徒からよく聞く言葉があります。
「神様が喜ばれることかどうかをいつも考えて生活しています」
と言う言葉です。
そのことについて、ある牧師がこのようにおっしゃっていました。
「神様の喜ばれることとは、神様と共に歩むことです」 アーメン!
神様と共に歩むなら、他のものはすべて加えて与えられるのですから。
マタイ6:33
「先ず神の国と神の義を求めなさい。
そうすればすべて加えて与えられる」
為すべきこと、語るべきこと、すべて神様が導いてくださる。
昼の北山
私たちのすることは、神様と一緒にいることだけ。
「神様に喜ばれるかどうかをいつも意識して生活する」という
この信仰的な言葉の陰にある「神様に喜ばれることをして生きようとする」意識のうちに
ひそむ危険性を感じました。
私が喜ばれたい→ 私が褒められたい→ 私が評価されたい。
こうした自分軸の無意識の発想。
神様軸から自分軸へと、サタンは巧妙に誘導するように思えていたからです。
午後遅くの北山
言い換えるならば、信仰の義を行いの義に引き戻す。
聖句でいうならば、ガラテヤ人への手紙3:2、3
「わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。
あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
あなたがたは、そんなに物分かりが悪いのか。
御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。」
神様の喜ばれることは、
「あれするこれする、あれを言うこれを言う、人のしてもらいたいことをしてあげる・・・等々そうして神に喜んでいただく」
のではなく、
「あなたは神様と共に生きているか、自分軸から神様軸に軌道修正しなさい」
ということが大事なのではないでしょうか。
そこをきちんと抑えていないと、
「あれするこれする、あれ言うこれ言う」といった「行い」が、
イエス様の上に「上書き」してしまいかねないのではないでしょうか。
きちんと軌道修正しなければ、識別しなければ、
道徳やヒューマニズムとごっちゃにしてしまうことになります。
道徳もヒューマニズムも善いこと。
神様の善さが一番なら、それらは二番目三番目の善いこと。
マラナ・タ
神様の喜ばれることをしようとするならば、まず、神様と共に歩むことです。