ごきげんよう!さわこです。
今朝の聖書通読新約聖書はマタイ25章
ここは「天国は次のように例えられる」とイエス様は仰って、
「十人のおとめのたとえ」と「タラントンのたとえ」を語られた後に「すべての民族を裁く」と神の裁きが書かれています。
その中で「十人のおとめ」について
E・Gホワイト著「キリストの実物教訓」(希望への光では1347ページ)より
29章「花婿を迎える準備」から抜粋して紹介します。
このたとえ話は、当時のユダヤでの婚礼の習慣をもとにイエス様が弟子たちに語られた話です。
夕やみのとばりが降りる頃、花嫁の家の近くに白い着物をまとった10人のおとめがいる。
各自は、火のついたあかりと、油を入れる器を持っている。
花婿が現れるのを今か今かと待っている。しかし、行列はなかなか現れない。
待っているうちにおとめたちはみんな眠ってしまう。
すると夜中に「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」と呼ぶ声がする。
10人のおとめたちは、それぞれのあかりを整えて急いで出かけようとする。
ところが、5人のおとめたちは器に油を入れるのを怠った。
彼らには万一の場合の用意がなかった。
彼女たちはあわてて賢いおとめたちに「あなたの油をわけてください」と頼むのだが、余分の油はない。
「店に行って自分の油をお買いになるとよいでしょう」と答える。
買いに行っているうち行列は進んでいき、彼女たちは置いて行かれてしまう。
あかりをもった賢いおとめたちは、婚礼の行列と共に家に入り、戸は閉ざされた。
キリストは、再臨直前の経験をこの譬えを持ってお話になられたのです。
主を待望すると公言する人々には二種類あることを示しているのです。
(つまりキリスト教会員には二種類いる)
「おとめ」・・・純粋な信仰を表明する人たち
「あかり」・・・神の言葉「あなたのみことばは我が足のともし火、我が道の光です」
「油」・・・・・聖霊の象徴、この聖霊が人間という器に注がれると神の御言葉がともし火となりあかりとなる。
この譬えを順序立てて書いてみると
① 10人のおとめは全員、花婿を迎えに出た。誰もがあかりと油の器を持っていた。
② しばらくの間は、彼らの間に何の相違も見られない。キリストの再臨直前の教会もその通りである。
③ すべての者は、聖書の知識を持っている。
④ すべての者がキリストの再臨の近づいたことを聞き、確信をもってキリストの出現を持っている。
⑤ 時間が長引いて信仰が試みられる。「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」と呼ぶ声がしたとき、準備の出来ていない者が多い。
彼らは、器の中に油を持っていない。つまり聖霊に欠けているのである。
⑥ 10人のおとめは地上歴史の夕暮れ時にいた。すべての者はクリスチャンであると言っていた。
すべての者は招きを受け入れ、灯りを持ち、神に奉仕していると公言していた。
すべての者は、見たところ、主の現れを待っているように思えた。しかし、5人は用意がなかった。
⑦ 最後の日に、多くの者はキリストの国に入れられることを要求して、
「主よ、私たちはあなたと一緒に食事をしました」
「主よ、あなたの名によって預言したではありませんか」
「あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか」などと言う。
しかしこうした要求に対してキリストは「わたしはあなたを知らない」と言われる。(ルカ13:26、27.マタイ7:22)
⑧ 彼らは、この地上の生涯において、キリストとの交わりに入っていなかった。
だから、天の言葉を知らず、天の喜びを味わうことができない。
ポイント
・ 神の聖霊がないならば、どんなに御言葉の知識があっても役に立たない。
・ 聖霊を伴わない真理の理論は、魂を生かすことも、心を清めることもできない。
・ 聖書の戒めや約束をどんなによく知っていても、神の霊がその真理を心に深く刻み込ませなければ、品性は変えられない
・ 聖霊によって、目を開かれるのでないならば、人は真理と誤りを見分けることができず、サタンの巧妙な誘惑に陥ってしまう。
・ 思慮の浅い女たちによって代表されている種類の人々は、偽善者ではない。
彼らは真理に関心を持ち、真理を擁護し、真理を信じる人びとに引き付けられてはいるが、
聖霊の働きに自分自身をゆだねていない
・ 彼らは岩なるキリストの上に落ちて彼らの古い性質が砕かれていない。この種の人々は、石の聴衆と言われている。
・ 彼らは喜んで御言葉を受け入れるが、その原則をかみしめて自分の者とはしないのである。その感化は永続しない。
・ 聖霊は、人が心の中に新しい性質が植え付けられるのを望んで同意するのに応じて、人の心にお働きになるのである。
・ ところが、思慮の浅い女によって代表される人々は、表面的な働きに満足している。
彼らは、神を知らない。神の品性を学んでいない。神と交わっていない。彼らの奉仕は形式化してしまう。
神に信頼して生きるべきことを知らないのである。
・ この種の人々は、危険な時に平和、無事と叫ぶ。安泰の夢をむさぼって、危険を知らない。
しかし、驚いて目覚めて自分の欠乏に気づくと、その足りないところを他人に補ってもらおうとする。
ところは、霊的なことにおいて、誰も他人の欠乏を補うことはできない。品性は譲渡することはできない。
誰も他人に代わって信じることはできない。他の人に代わって聖霊を受けることも出来ない。
聖霊の実である品性を人に分け与えることはできない。
・ 品性が分かるのは、危機においてである。危機において一方には非常の場合の用意があった。
他方にはその用意がなかったのである。
・ 危機の時に、予期しない災害や死に当面するような出来事の時に、
神の約束に真の信仰を置いているかどうかわかるのである。
魂が、恵みに支えられているかどうかが分かる。
・ 恵みの時の終わりに、最後の大きなテストが来るのであるが、
その時では魂の必要を満たすのには遅すぎる。
続く