ごきげんよう! さわこです

 
私は昔から、死にたい、死にたい、と思っていました。
ただ、肉体的に苦しまずに死ぬ方法が分からないから、
また、私の死に方によって、身近な人たちが苦しむかもしれない、
と考えたら、死ぬ勇気が持てませんでした。
 
だから、自分から死ねないままに、還暦も過ぎました。
 
昨夜は、叔母のお通夜でした。享年92歳。 立派に生きて天寿を全うしました。
帰り道、美しい月が。月齢は10.8 
 
 
 
今朝の聖書通読の後、パレスビー「みことばの糧」を開きました。 
 
「イエスは、私たちに代わって死に、その死によって、死に打ち勝ち、3日目に墓からよみがえられました。 
今日もイエスは、死の恐怖におののく私たちを助けてくださいます。    
私たちが死なないようになるのではありません。
死に対する内的な勝利の確信を与えられます。私たちに死ぬ勇気を与えられます。」
 
イエスは地上生涯で、何人もの人を生き変えらせました。
その家族はどんなに喜んだことでしょうか。
しかし、生き変えらせてもらった人もいつかは死にます。
この地上生涯を永遠に生き続ける人はいません。
この生きづらい世の中で永遠に生き続けるのは、拷問に等しくさえあります。
 
今朝7時の太陽。
 
 
 
数年前に亡くなった伯母は百歳まで生きました。
その伯母も立派に生き、立派に死にました。
しかし、晩年は
「生き過ぎました。早くお迎えに来て下さい。友は誰もいなくなりました」
        と嘆く日々でした。
 
また、別の伯母は、いわゆる健康オタクのはしりのような人でした。
老いてからも「死にたくない。死ぬのが怖い」と言いながら94歳まで生きました。
 
死にたい、死にたくない。
その根拠はそれぞれです。
 
 
ここまで、書いたとき、コリント第一の手紙15章を読みたくなりました。
復活についてです。
 
今から、ダニエル書研究会に出かけます。
続きは帰宅してから。