ごきげんよう!さわこです。

 

 

キリスト教教会の中には二つの福音があります。

一つは真の福音、もう一つは偽の福音。

 

真の福音は、神様が人類を救おうと計画された救いの方法。

偽の福音は、堕落した人間が自分たちが都合のいいように、

聖書の内容を造り変えた方法。つまり、人造神学。

 

この二つの福音は、同じ聖書の言葉とイエス・キリストの名前を使いますから、

混乱してしまいます。

自分好みの、聖書の言葉で慰めを得、励ましを得、平安を求めていると、

それから外れた御言葉に出会うと、心がザワザワします。

何がどうなっているの? この言葉、あの言葉、相反する聖句に・・・???

 

結局、お気に入りの聖句ばかり収集して、理解できない聖句には蓋をする。

天国に行ったらわかるからね、考えるのはやめよう! 

やめるのじゃないよ、神様にゆだねたの。

ええっ? そういうことを「神にゆだねる」って言うの???

 

聖書の中に「偽の福音」があるなんて言うのは、

聖書への冒瀆、神様への冒涜ではないの?

疑問を出すと、不信仰だとか、議論は良くないと聖書に書いてあるとか。

疑わずに信じる人になりなさいと聖書に書いてあるとか。

幼子のような信仰が大事ですとか。

 

こういう純粋に聞こえる信仰は、見方を変えるならば、思考停止的信仰かもしれない。

信仰のかたちは、人それぞれですから、人の信仰を批判するのは神様の御心ではありませんよ、

と、正論に聞こえるような、人権尊重的信仰。

 

 

そして、福音書のイエス様の「毒麦のたとえ」を思ったのでした。

 

マタイ13章24-30節、長くなるので端折って書きますと、

ある人が畑に良い種を蒔いた。眠っている間に、敵(サタン)が来て毒麦を蒔いて行った。

そこで、しもべたちが「抜き集めましょうか」というと主人は、

「刈り入れまでそのままにしておきなさい。刈り入れの時、先ず毒麦を集め、

焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」

これは、天国のたとえなのです。

 

サタンはかつてユダヤに徹底した律法主義を植え付けることで、

メシア(キリスト)を十字架に付けるのに成功しました。

しかし、メシアであるイエスが十字架にかかることで、人類全体の罪を贖い、

復活なさることで、イエスが神そのものであられることを証明されました。

そして、初代教会の信仰が生まれたのです。

それらのことは、全部、旧約聖書と後年に呼ばれるようになった「律法と預言者」

とイエス様が言われた聖書に預言されています。

 

弟子たちや使徒たちが歴史の現場からいなくなって、二世紀には、

次第に使徒たちの教えから逸脱した傾向が見られるようになりました。

礼拝日も第七日安息日から日曜日に変えられて行きました。

 

迫害されていたキリスト教がローマ政府に公認され、国教とされたのが3世紀から4世紀。

サタンは「迫害」では効果がなかったので、今度は「間違った教え」を教会に持ち込みました。

2世紀の教会が最も恐れた異端はグノーシス主義でしたが、さらに教会を悩ませたのは、

明確な異端ではないが神学的な誤謬を解く人々の存在でした。

聖書には書かれていない「教え」をサタンは教会に持ち込みました。

正統派キリスト教と自任する教会には、聖書の内容を造り変えた人造神学が混入しています。

 

イエス様は「毒麦のたとえ」で、これらのことを預言なさっています。

イエス様が人性をとられてこの地上人生を歩まれた時代には、

パリサイ派や律法学者、祭司たち、当時の宗教指導者たちは律法主義を教えていました。

イエス様が復活なさり昇天され、聖霊が豊かにくだり、

イエス様の御教え(聖書の正当な理解に基づく)福音を伝えるために

初代教会が起こされました。

 

迫害→キリスト教公認→キリスト教国教→ローマカトリックによる人造キリスト教

このような流れで、サタンは中世宗教暗黒時代のカトリック教会を通して、各種の儀式や巡礼(行い)

を通して救いを得ることができるという新たな律法主義を広めるのに成功しました。

この時代の教えが、16世紀の宗教改革の後にも受け継がれている部分があるのです。

 

宗教改革を通してイエス・キリストと弟子たちが確立した真の教会の信仰がよみがえり、

その後ジョン・ウエスレーの時代になると福音と律法のバランスや調和が回復して、

プロテスタント教会の全盛期を迎えました。

 

しかし、産業革命以降、科学と産業が発達し、富に対する人々の欲求が頂点に達し、

世俗的な潮流が教会の中にも浸透するようになりました。

世俗化した教会は、成長と繁栄が最高の目的になりました。

そのために、福音宣教の名のもとに、もっと多くの信徒を呼び込もうとして、

真の悔い改めをしていない人々も入って来るようになりました。

キリスト教に入信したら現世的な利益を得られるという方法による現象は、

ローマ帝国がキリスト教を国教とした時代にも起きています。

出エジプトの時にも、イスラエルの神の大いなる力に圧倒された多くの人々も混じっていました。

その時にも起きたことでした。

 

神の存在を信じても、その神を私の個人的な神として受け入れて

生き方や在り方が変革していかなければ、口先だけの表面だけの、根の張らない信仰です。

 

ヨハネの黙示録 2章3章には、

エフェソ、スミルナ、ペルガモ、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオデキア

7つの教会が出てきますが、初代教会から現代に至るまでの教会の様相が、預言されています。

 

今、わたしの教会では月に一度安息日の午後に、長老主催で「黙示録」を学んでいます。

黙示録は入信してすぐから学んできましたが、最初は何だか訳が分かりませんでした。

ことあるごとに学んできて、聖書のあちこちと響き合い少しづつ腹に入って来ています。

 

 

マラナ・タ

自分の内にある傲慢と偽善に気づかせてください。

そのためには、イエス様を見上げ続けていなければなりません。

毎日、新しく生まれ変わる信仰を与えてください。