ごきげんよう!さわこです。
今夕の空 月齢 8.7
私の持っている歳時記カレンダーには、
月の満ち欠け、二十四節気が書かれています。
十年以上も前に弟がプレゼントしてくれて以来、
びっくりするくらい大好きになって毎年自分で購入。
十月になると生協のカタログに出てきます。
好きすぎて、好きすぎて、というお気に入り生活グッズは誰にでもあるもの。
今日は「白露」なんです。
ということも、その歳時記カレンダーがあるからわかります。
昨夜のこと、遠く離れた信仰の親友とラインデボーションをしていました。
その中に、彼女の書いて来たホセア書からのデボーション。
テーマは「露」。
そして、翌朝が「白露」、神様、何というタイミングでしょう。
彼女から快諾を得たので紹介します。
青字が彼女のデボーション
今日、聖書通読はホセア書を終えました。
ホセア13:3 「それゆえ、彼らは消え去る露のようになる」
さわこさんがいうところの「朝顔の露のようにはかないもの」をあらわしていますね。
「朝に生まれ、夕べに死すならひ」的に鴨長明さんのような。
朝に咲いた花が、夕にはしぼんでいます。ここにも、「無常」があります。常で無い。
9月3日に投稿した記事の書き始めの文章を、彼女が覚えていてくださった。
ホセア14:5 「私はイスラエルにとって露のようになる」
14:5の「露」は植物を育てる恵みの露を表わしていることから、
いったんは枯れて「死の状態」になったとしても、
神様は用いられ、善いことをなさることを表わしているのじゃないかしら。
失敗して蒸発して、枯れても神様が、又それを集めて、天から降らせ、潤してくださるという。
何度でもやり直せるぞ、私。という希望を持ちました。
神は、失敗をも用いて、素晴らしいことをなさいます。
イザヤ55:9
「・・・ わたしの思いは、
あなたたちの思いを、高く超えている」
失敗とは、人の目にそう映るだけで、
神様は天上から、私たちの思いを遥かに超えた見方をなさいます。
単純にいうなら「終わりよければすべてよし」
このフレーズは中学一年生の時、
赤毛のアンシリーズにはまりっ切った時に覚えたアン・シャーリーの言葉。
ウイキペディアによれば、
おわりよければすべてよし、All's Well That Ends Wellとは
ウィリアム・シェイクスピアによる戯曲である。
1603年から1604年ごろに書かれたと推測されている。
あらま、江戸幕府が開かれた年だ! と感動。
このころ、イギリスではシェイクスピアが活躍していたんだ・・・
私は聖書的発想とばかり思い込んでいました。
アンの舞台はカナダ、聖書の言葉も出て来る本ですから、
きっと、詩編あたりにあると思い込んでいました。
シェイクスピアだったとは、しかもその戯曲は結構みだらな内容。
まあ、おませなアン・シャーリー。
マリラにしばしば注意されたのもよくわかります。
友のディボーションから、次々と聖句が思われました。
聖句サーフィンになりました。
「終わりよければすべてよし」その根拠は
詩編73:16、17
「わたしの目に労苦と映ることの意味を
知りたいと思い計り
ついに、わたしは神の聖所を訪れ、
彼らの行く末を見分けた。」
詩編
37:40
「主を避けどころとする人を、主は救ってくださる」
これら、詩編からそういう意味だと思い込んでいました。
露、雪、雨、つながりで、イザヤ書も思いました。
イザヤ書55:10
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、
種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。
また、新約聖書からは、
ローマ8:28
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、
万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
昨夜からの大雨で、咲いた朝顔も雨水の重さで、ぐっしょり萎れたかのようです。
マラナ・タ
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。イザヤ55:8