ごきげんよう!さわこです。

朝から雨です。

 

昨日読んだO・ハレスビー「みことばの糧」を読み返しました。

 

ヨハネ16:33

「あなたがたには世で苦難がある」

イエス様はこんなふうにきっぱりおっしゃいました。

 

(この世での苦難が耐えきれなくて、クリスチャンになったのに、そんなごむたいな・・・。

それならば、ご利益宗教を選びましたよ…と思う人も無きにしも非ず・・・)

 

以下、ハレスビーの言葉を青字で引用します。

 

すべてのクリスチャンにはこの世で苦難があります。

それにもかかわらず、苦難が来るたびに驚きます。

苦難が激しくなり、長引くと、疲れて傷ついた魂の中に多くの辛い疑問が湧きあがってきます。

 

 

これについて聖書は、

1、苦難を通して従順を学びます。イエスですらも苦難を通して従順を学ばれました。(ヘブライ5:8)

  従順は犠牲にまさります。イエスのために苦しむことによってのみ、学べるものは大きいのです。

 

2、苦難を通して忍耐を学びます。(ローマ5:3)

  私たちは、せっかちで、辛抱することを知りません。

  私たちは、神の恵みによって必ず苦難から救われることを苦難のうちに学ぶのです。

(この世の人生の中で、苦難から救われないままに人生を終える人がどれほど多いのか、ハレスビーさんは考えていらっしゃるのかしら・・・とつぶやきました。)

 

3、苦難は信仰が本物であることを証明します。(第一ペトロ1:7)

  試練の火は、あらゆる不順なものを取り除き、純粋な信仰の実を残します。

  試練の火は熱くとも危険ではありません。

(では、なぜ、苦難の大きさの故に、自死を選ぶ人も出て来るのですか?

心身がすさみ果て病気になってしまうのですか?

試練の火は危険ではないなんて・・・・・とつぶやきます。)

 

4、苦難は希望を生み出します。

  私たちは、地上のことがらに執着する傾向があります。

  それが天国を遠いものにしてしまうのです。

(苦難は希望を生み出すと、聖書に書かれていましたから、この神様を信じたのです。

地上での苦難が、人の品性を清め、天国の住人として相応しくして頂けるとでも言うのでしょうか。

希望とは、天国に入られることを言うのですか?

苦難は天国行きの切符だとでもいうのですか?ハレスビーさん・・・とつぶやきます。)

 

そこで、ハレスビーさんは、振り子の壁時計を譬えに出します。

 

時計の振り子を外したら、大きな壁時計が止まってしまうように、苦難の振り子を外したら、神にある命も停止するのです。

 

(私のように、振り子時計を見て育ってきた古い人間にはピンとくるでしょう。

しかし、デジタル時代の若い人には、この譬えは通用しないかもしれません。

私には、ぴったり来ます。分かりやすい例えです。)

 

しばしば振り子が重すぎるように感じます。

しかし、それ(苦難)を得させることを赦されたかたは、あなたの造られたさまをご存知です。

 

あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることをなさらず、試練と共に、

それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。(コリント第一10:13)

 

私は30年前、この聖句にであって希望を持ちました。

キリスト教を信じたら、この試練を耐えることができるようになる。

いいえ、耐えられるように、逃れの道をそなえてくれるのだ、この神様に決めた!)

 

やがて、逃れの道とは、人生の成功を約束してくれる方法論や、難病が奇蹟的に完治したことや、

進学先や就職先や、経済問題の解決や、善き配偶者との出会いといったことではなかったのです

 

問題が解決した、人生が開けた、成功した、この神様を信じて生きたらこうなった、

との成功の「あかし」を持つ人も、中にはいらっしゃいます。

 

「あなたの信じるようになる」「あなたもあなたの家族も救われる」

という御言葉を掲げての「あかし」です。

「祈りが聞かれた」という「あかし」です。

 

「あかし」とは、「キリスト信仰をもって、祈ってこの世の人生に成功した」

ことを言うのでしょうか?

 

信仰を持って、10年くらい経過したころ、逃れの道とは、キリスト様のことだと分かりました。

キリスト様の地上人生はどうでしたか?

キリスト様の地上人生の最後はどうでしたか?

 

 

十字架のキリスト様を、我が救い主と信じるとは、

この地上人生で苦難がなく、人生の成功者となって、

うまくいった人生を通して、「あかし」に変えられるということでしょうか?

 

私は30年前には、それを期待しました。

しかし、違いました。

苦難を通して、私の品性がキリスト様に似た者になったとも思えません。

尊敬されるに値する人格者にもなったとも思えません。

誰からも信頼される人物になったとも、愛される人気者になったとも思えません。

 

 

マラナ・タ

分かっていることは、御言葉であるイエス・キリスト様無しでは

生きていけない者になってしまったということです。

毎日、聖書にしがみつかなくては生きていけないものになったのです。