ごきげんよう!さわこです。

今日は朝から雨です。

 

 

水曜日の聖書勉強会はダニエル書です。

私は木曜日の祈祷会に行っているので、

二日連続で家を空けるのは・・・と躊躇していましたが、

 

ダニエル書と聞いたら

矢も楯もたまらず参加することに決めました。

全12章ですし、10月までの、期間限定ならば・・・と思うと・・・

 

「妻はキリスト者なんだから安息日と祈祷会の出席は当たり前」

と、夫は思ってくれています。有難いこと、ありがたいこと。

 

でも、さすがに週に三回の外出は・・・気兼ねしてしまいます。

でも期間限定ダニエル書だから・・・と。

 

 

では、本日の学んだ要点を

ダニエル書4章は、ネブカドネザル大王の証。

その王様の高ぶりと屈辱と回心の物語、告白録です

ダニエル書第四章は、本当の歴史の見方を教えています。

歴史を支配しているのは神であり、神こそまことの王であるのです。

 

ネブカドネザル王は、一種の自己礼拝のゆえに、

野獣のようになる病に7年間罹りました。

しかし、7年後、天を見上げたとき理性が戻ったのです。

神を見上げる生き方こそが人間の本当の姿です。

7年の病は王の心の眼が開ける機会でありました。

王は個人的体験よって神を知りました。

 

神様の偉大さは、知恵とか力、支配ではなくて、

そのあわれみや忍耐にこそ示されています。

 

 

ダニエル書というのは、人をまことの王へと導くものです。

まことの王なる神とは愛の神です。

 

ダニエル書4章は傲慢な王様の裁きではなく

悔い改めと救いで終わっています。

 

 

牧師が、「ネブカデネザル大王は、天国に行けると思いますか?」

と尋ねられました。

 

私は瞬時、答えました。

「行けますとも!きっと、天国で会うことができるでしよう。

すぐにわかると思います。イメージできますもの。

私が行けたらの話ですけど・・・(笑)」

 

ダニエルがバビロンで与えられた名前はベルテシャツァル。

ダニエルの名前の意味は「神はさばき主」

ダニエルがバビロンで、新しくつけられた名前の意味は、「ベル(バビロンの主神)が王の命を守る」

 

この名前をネブカデネザル王が与えたことだけでも、王がダニエルを気に入ったことがうかがえます。

ダニエルにとったら、不本意だったことでしょうね。

ヤハゥエの神に属する名前から、バビロンの王を守る神の名前にちなんで名付けられたのですから。

しかも、ネブカデネザル王の息子の名前が、ベルシャザル。

似ていると思いませんか?

ベルテシャツァル と ベルシャザル。

 

バビロンの文字で書いたら、読んだら、似ていないかもしれませんが、

日本語で書いたら、似ている!(笑)

 

今日の勉強会での発見の一つです。

 

 

「さわこさん、

ネブカデネザル王をどういうふうにイメージしているのですか?

サムソンみたいに筋肉隆々とか(笑)」

 

「う~ん、サムソンよりも、もっと、品格ありそうな・・・う~ん」

 

「サムソンは天国に行けると思いますか?」と牧師。

サムソンは、ナジル人として育てられたにもかかわらず、

そりゃあ、次から次へと問題を起こしましたよ。

でも、最後の最後で、髪の毛が伸びて怪力が戻って、

ペリシテ人の神タゴンにいけにえをささげる祭りの時に

建物を支えている柱を倒して、真実の神に敵対するするすべての人々を

自分の死を持って殺したのは、サムソンの悔い改めの象徴であり、

自己犠牲であったわけでしょう? 

自己犠牲できるのは、イエス様の心ですから。

天国に行きますとも!」

 

ダニエル書から、脱線してしまったりもしました(笑)

 

 

ネブカデネザル王も、ダニエルたちに会って、

巨像の夢の解き明かし、ドラの平野に巨像を建て拝むように強要した時

それを拒否したダニエルの三人の友たちが、燃え盛る炉に投げ入れられられても無傷だったこと。

その時、神の子(受肉前のキリスト)が共にいたこと。

このようなことを繰り返して、その都度、ダニエルたちの神を知ったにもかかわらず、

その信心は、長続きしないままに4、50年も経過してしまっていたのです。

 

 

その王が、7年の間、獣同然になり、理性が戻った時

天を仰ぎ見て、いと高き、永遠に生けるお方を讃美し崇めたのでした。

王は、個人的体験によって、最初にダニエルたちに会ってから

4~50年かけて、悔い改めて神を崇めて眠りについた。

 

私たちの周りにも身近にも、何十年と執り成しの祈りを続けている人たちがいます。

ネブカデネザル王のケースは、励みになります。

最後の最後まで、執り成しの祈りを諦めてはならないと思うのです。

 

 

私は毎朝、個人的なお祈りを終え、

聖書通読やデボーションの時を過ごしたあと、

朝の7時が近づくと、屋上に上がります。

 

それは、777の祈りと言って、

世界中のセブンスデーアドベンチストたちが、

1週間(7日)毎日、午前か午後の7時に、合せて祈る祈りの時間です。

 

その時に執り成しの祈りをするのですが、

未だ、イエス様に出会っていない人々、

出会いながらも信じる決心を出来ていない人々、

一度は信じながら離れていった人々、

そうしたたましいのために、恵みの扉が閉じるまでに、

真実の神を信じることができますようにと祈ります。

「きょう」信じることができますように、と願います。

 

私たちの身近にも、イエス様の存在を知ってから、

すでに50年を越えている人々もいらっしゃるのです。

ネブカデネザル王の時代よりも、ずっと再臨が近いのです。

しかも、私たちの地上人生は、今日が最後の日であるかもしれないのです。

決心を明日に延ばしていいのでしょうか。

50年後に延ばしていいのでしょうか。

 

 

マラナ・タ

世の終わりのラッパ 鳴りわたる時

世は とこ世の朝となり

救われる者は 四方のすみより

すべて主のもとに 呼ばれん

その時 わが名も  その時 わが名も

その時 わが名も 呼ばれなば 必ずあらん ♬