ごきげんよう!さわこです。

教会の書庫で見つけたこの本

 

著者、渕田栄牧師は、

1918年にコロラド州に生まれて、アンドリュース大学、ワシントン神学院卒。

サザンカリフォルニア大学教育科修了。

日本三育学院神学部教師を経て、日本、アメリカの各地で牧会。

アメリカ在住と、奥書にあります。

 

もし、ご健在なら、101歳。

この本が発行されたのは1994年12月25日ですから76歳の時。

太平洋戦争が始まったのが1944年だから、その時は26歳です。

 

この先生については、私は何も存じ上げないのですが、

アメリカで生まれ育ち、教育を受け神学校で学ばれた。

戦時中は26歳から30歳であることを思うと・・・想像してしまいます。

 

最後までは読めてはおりませんが、

印象に残ったところを紹介します。

 

 

すべての人は檻を離れた羊のように神から離れてしまっている。

神を離れた者は善を行わないから罪人である。

イエスはその罪人を救うために来られたのである。

神は人々を心に留められるのである。

 

 

私たちが神を捨てても、神は私を決してお捨てにならない。

私たちは神によって生かされており、倒れないように支えられている。

艱難と苦難は良い品性を形成するために

神がお与えになるとダビデは信じて神を讃美している。

 

 

人のいかなる事情も神は知っておられる。

神は創造されたすべてのものを守っておられる。

人が一日中仕事に勤しむ一部始終も見守られている。

人に知られないように流す涙も神の目には留まらないことはない。

かすかに浮かべる微笑も見過ごしにはされない。

 


 

神ご自身が、ナザレのイエスとしてこの世においでになり、

人々は目に見えない神を目に見えるイエスを通して知るようになった。

イエスの教え、奇蹟、言葉、実践などは

神がどのようなお方であるかを世に反映している。

神を世に現すために、主は神性を人性で覆われた。

そうすることによってのみ、神は人類に理解されるのであった。

 


単純な祈りは、安らいだ感情を生じさせて、

緊張をほぐし、頭痛やそのほかの苦痛を和らげる効果がある。

 


イエスは地上での使命を果たされ、天に帰られる最後の1週間に

いろいろな真理を弟子たちにお教えになった。

その一つは、ご自分が去った後に

御霊がイエスに代わって地上に来られ、

イエスを信じる者と共におるようになるということであった。

これは主なる神イエスが、

御霊によって私たちはと共に住んでくださるとの約束だったのである。

 

 

祈りとは・・・・(詩編23篇  22、23ページ)

 

第一に祈りは単なる物乞いではない。祈りは、讃美と対話と懇願をし、真心を開き神に語る時間である。

 

第二に、祈りは魔法ではない。祈りは人生のすべての不愉快な状態をなくす方法でもない。

 

第三に、拒絶も答えである。つまり私たちが答えてほしいようにはお答えにならない時がある。

 

祈りの答えは神にお任せするのが1番よい。

 

マラナ・タ

私たちは、何でも受け入れて、

自分の望み通りにかなえてくださることを

神様に期待していないだろうか。

そんなご都合主義の甘ったれた祈りに対して

ピシッと書いておられる。