ごきげんよう!さわこです。
今朝の北山です。
O・ハレスビーの「みことばの糧」
10年以上前に一年間かけてデボーションのために用いた本です。
そのころ、ともに読んでいた信仰の友が読み返していると言っていて
刺激を受けて私も読んでいます。
8月11日のページに深く感じるものがありましたので、紹介します。青字です。
黒字の(・・・・)はわたしの見解。
気づかないうちにクリスチャンがしてしまう過ちのあれこれ・・・ではないでしょうか。
ルカ13:12
イエスは、その女を見て呼び寄せ「婦人人よ、病気は治った」と言われた。
18年間も病の霊に取りつかれていた女が癒された物語は大きな感動を与えます。
わたしたちの霊は、古いエゴと関係する時、もっともよくあらわれます。
その時、自分には、上からの力を頂いているのか、病の霊によって生きているのか、
明らかに判別できます。
たとえば、病気の人たちや、貧しい人たちのために喜んで犠牲を払いますが、
自分の家庭はいいかげんにしている人がいます。自分の家庭のために
こまごまとした犠牲を払うことは、あまりにもちっぽけに見えるのです。
(ここで巧妙なサタンのささやきがあります。「自分の家庭のために・・・なんて自己中心ね。
クリスチャンになったなら、自分の家庭よりも優先させるきことがあるのではなくて?
それこそが、自己犠牲で、クリスチャンの働きでしょう。」 そして家庭のため働きが
自己中心的な罪の行為であるかのように思わせるのです。そうして、家庭不和へとサタンは持ち込みます。)
遠くまで、説教に出かけたり、あかしをしたり、讃美のために出かける人がいます。
ところが家庭では、家庭礼拝をもったことはありません。
外へ出て、他の人々に合うと親切でにこにこしていますが、
家の中では不機嫌で鼻持ちならない人物です。
これは、偽善ではなく、病の霊に取りつかれているのです。
よく燃えるクリスチャンですが、霊が弱い場合があります。
人間の霊には満ちているけれども、神の霊が少ないのです。
外目にはどのように見えようとも、
パウロはこれを肉につける信仰と読んでいます。
今日の物語では、病の霊の働きについて述べているだけでなく、
それをイエスが癒されたことが語られています。
そこでは「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」
病の強さが述べられています。
私たちは内に隠されたエゴを主のみもとにもっていき、隠れた罪を告白し、
キリストの働きを妨げている罪を告白しようではありませんか。
私たちの古いエゴがキリストの十字架の元に置かれる時、
私たちの病の霊はいやされて、上からの力をいただくのです。
うちの屋上から、南の空にそびえる鉄塔を見ます。
私の十字架だと思って信仰を新たにします。
マラナ・タ
主イエスよ、私たちの古いエゴを捨て去る決意を強くさせてください。
あなたを信じた時に、古いエゴは十字架につけました、と宣言いたします。