ごきげんよう!さわこです。

 

台風が去り、じりじりと暑い日が。

北山から、夏雲が次々湧いています。

 


O・ハレスビー「みことばの糧」8月5日から。

10年以上前に毎日のデボーションの助けとして読んだ本ですが、

6月ごろから、日ごとに読むようにしています。

目を開かされるような慧眼の書。

 

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、

わたしのために命を失う者は、それを得る。マタイ16:15

 

この聖句がテーマです。

文章は部分的に要約しています。青字です。

 

イエスの生涯の奥義は、進んで苦しまれたことですが、

人の子として苦しまれただけでなく、神の子としても苦しまれました。

 

進んで苦しむことが、神のいのちの奥義であり、

神の愛における本質的な要素になっています。

 

私は奥義という言葉が大好きなのです。国語辞典によれば、最もかんじんな点。極意。本質。

このことばは新約聖書に26回出てきます。そのうちの22回がパウロの言葉の中に出てきます。

他の4回のうちの3回は共観福音書にそれぞれ「天の御国(神の国)の奥義」で3回、残りの1回は黙示録(10:7)。

エペソ人への手紙だけでも8回使われています(1:9、3:3, 4, 5, 6, 9、5:22、6:19)。

そもそもは、種まきのたとえのところで、イエス様が弟子たちに

「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない」と

言われたところに目が留まったことが、はじまりです。

ですから、信仰の書を読んでいて「奥義」と出て来ると、私のアンテナにひっかかるのです。

 

苦しむことは、信仰者にとっても、信仰生活の奥義であります。

パウロは、キリストを信じるだけでなく、

キリストのために苦しむことを赦された信仰者たちはさいわいであるとさえ言っているのです。

 

信仰者がしばしば成長しないのは、

神の恵みを値なく受けとりながら、

イエスのために進んで苦しむために力をいただくのではなく、

自分の世的な安全をもっと求めるからなのです。

 

私たちはみな、肉体的にも精神的にも苦しむことを恐れています。

私たちが熱心に、また、真剣に祈るのは、

私たちを苦しみや逆境から救い出してくださいとお願いする時です。

 

(もちろんそうでない信仰者もいるでしょうが・・・それは承知の上でハレスビーは書いているのです)

 

私たちクリスチャンは、進んで苦しむべきです。

私たちも含めて罪の世に生きているからです。

 

(すすんで苦しむべきです・・・との表現に、引っかかる人もいます。

ここは、苦しまざるを得ない状況に陥る時にも、逃げ出したりしないで、

逃げようにも逃げられないのが実情でもありますが。

そのときこそ、その苦しみをともに担ってくださるイエスを信頼して、

苦しみの状況を引き受ける。受け取る。私はそういう意味に捉えています。

ほら、ハレスビーさんは、続きにそのように書いているではありませんか。)

 

しかし、救いを受けたクリスチャンは、

キリストの御霊をいただいたので、進んで苦しみを受けるようになります。

 

   今朝は、仕事の用事で役所まで自転車を飛ばしたのですが、

   お城の近くの公園のそばでは、蝉の大合唱。

   見事な合唱ですこと・・・と蝉の集団にご挨拶しながら、

   見上げた空を一枚ぱちり。

 

それでは、進んで苦しもうとしない信仰者の場合、どうすればよいでしょうか。

 

その時は、恵みを求めて祈りなさい。

「すすんで苦しみ、キリストのために命を失う者は、それを得るとの約束を信じない罪をゆるしてください」

とまず祈りましょう。

ここまでの青字が引用です。

 

 

25節の前、24節の聖句も有名です。

「誰でも自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい」

24節25節では、自分を捨てること、自分の命を失うこと、

そういう表現を通して苦しみことについて書かれています。

 

キリストを信じると言うことは、主イエスにあっての苦しみへの招き。

キリストに出会うことで、自分の苦しみに神の国の意味と目的が見出せる。

キリストを信じることで、絶望しない。

この三点が、私にとっての信仰生活の奥義だと噛みしめています。

 

マラナ・タ

主イエスよ、あなたの再臨を待ち望みます。