ごきげんよう! さわこです。

 

 
悩み苦しむ両親たちよ。
苦しみ、嘆きそのものに、気落ちする必要はありません。
この世界で、愛する者は、いつも悩むのです。
悩みと涙によって人々は救われます。
 
昔の諺に、小さな子供は小さな悲しみを生み出し、大きな子供は大きな悲しみを生み出すとあります。
 
子供が大きくなると、両親に批判的でわがままで、扱いにくくなります。
イエスについて話しても、冷ややかな態度でしか反応しません。だんだんと両親から離れて行きます。
 
両親は自分の無力さを知らされ、自分の思ったような家庭づくりが出来ないことを実感します。
さらに、悪いことには、子供たちが信仰から離れていったのは、親である自分の責任ではないかと自責します。
自分の毎日の生活態度が子供を躓かせたのではないのか。
子供は最終的に滅びの道を歩んでいるのだ、それも親の責任なのだと。 
 
親である自分の信仰は、見せかけで、本物でなかったことが、今、ここであらわにされたのだと。
こうして全くお手上げの状態になります。
 
ノルウェーの神学者、O・ハレスビーの「みことばの糧」を読み返していましたら、上記のようなことが書かれていました。
 
悩み苦しむ両親たちよ、この苦しみをイエスのもとに携えて行こうではありませんか。
 
 
我が子が信仰面でも、社会的にも、順調に成果をおさめ、「神様のおかげだ」と、「キリスト教を信じて生きたからだ」と、
「あなたもそうすれば、このような報いがありますという証は伝道になります」と語るのを聞いた時、どうでしょうか。
 
でも、それが、救いに無関心な人たちにとって教会の間口を広げるならば、
伝道活動のひとつとして、社会奉仕の一つとなるならば、
弱者に寄り添うイエス様に倣うことのひとつ・・・と言えるのでしょうか。
 
子どもの小さい時、また、順調に成果が上がっている人、その見通しのついている人ならば、
「アーメン」と言えるでしょう。
深い後悔の念を持ち、自分を責め、我が子に苛立ち混乱の中にいる人には、どうでしょうか。
 
その証しは、神のご品性をすべてあらわしているでしょうか。
 
 
子供が、社会人としても、クリスチャンとしても、評価外にあるとしたら、
それは自己責任の領域で、親も子も最終的滅びの道に足を踏み入れたとみなされるのでしょうか。
 
信仰がない人、信仰の成長がない人、信仰を自分の家庭に活用できていない人。
その結果としての自己責任、と見なしてよい問題でしょうか。
 
もし、聖書を根拠に神の国と神の義を語るクリスチャンから、
そのような隠れたメッセージが伝わっていたとしたら、
教会は世の成功者の集まる慈善活動の場のひとつ・・・・?
十字架がネックレスや装飾品の一つ・・・?
 
 
「貧しい人たちの世話は、神様がすでになさっていることであり、私たちはそうするようにと招かれているのです。」
(安息日学校教課研究ガイド2019年度7月24日より)
 
貧困が能力の問題であれ、選択の結果の自己責任であれ、神は見放すことはなさいません。
 
「貧しい人たち」の定義は、今の時代では実に多様化されています。
「貧しい」と見なされている人が、実はクリスチャンたちより、経済的に体力的に裕福なケースもあります。
裕福な生活や自己実現を追及して、結果的に子供に手が回らない・・・そういう人たちもいます。
大家族時代なら、祖父母や叔父、叔母、従姉妹たちが協力し合えたことが、核家族社会となって一家で助け合うことが困難になっています。行政の福祉や保育園、託児所の領域になりました。
 
その手の届かないところを教会が担うべきではないだろうか、という考えもあります。
それこそが、神の手となること、神の足となることだと。
 
教会は信者の献金で活動がなされています・・・
しかも、高齢化してきました・・・
悲しいかな、志に実態が追い付かない現状もあります。
 
というよりも、志を支え合う信徒たちが減少しているというのが実態です。
日本のクリスチャン人口は、カトリック、プロテスタントを合わせても1%未満です・・・
 
しかし、そこであきらめてはいけない。
信仰の成長はそこからこそはじまる。
さあ、一歩進みだそう、神の愛は行動なくして、人には伝わらない。
絵に描いた餅では、空腹は満たされない。
という信仰観があります・・・
 
ヤコブ手紙はそういう信仰観の人たちの裏付けとなる聖句です。
 
 
ヤコブの手紙 1:22
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて聞くだけで終わる者になってはいけません。
 
ヤコブの手紙 2:1
・・・主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
 
ヤコブの手紙 2:14-17
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、
行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。
そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟あるいは姉妹が、着るものもなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」
と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何に役に立つでしょうか。
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰もそれだけでは死んだものです。
 
マルチン・ルターは、ヤコブの手紙を藁くず同然だと「藁の書」と言いました。
しかし、プロテスタント諸派が、ヤコブの手紙を藁の書と見なしたわけではありません。
新約聖書から取り去られたのではないのです。
宗教改革の後も、ヤコブ書は、神の預言として、大切に読み継がれています。
 
日本聖書協会ホームページによれば、以下のような簡単な解説があります。
「ヤコブの手紙」は、信仰生活の実際的側面、特に共同体内での人間関係や家の問題に指針を与える。」と。
 
また、ウイキペディアによれば

『ヤコブ書』は教会の中で正典として受け入れられるまでに非常に長くかかっている。

その理由として考えられるのは、内容が主にユダヤ人キリスト教徒に向けられたものだったということにあると考えられる。

そのため非ユダヤ人の間ではなかなか読まれるようにならなかった。

それでもアレクサンドリアのアタナシオスがまとめた27の正典の中には加えられており、

4世紀のいくつかの公会議を経て正式に正典と認められるようになった。

 

宗教改革の時代、一部の神学者によって再び『ヤコブ書』が槍玉に挙げられるようになった。

特にマルティン・ルターは『ヤコブ書』をあまり価値のないものと考え、『藁の書』と呼んで何度も正典から外そうとした。

その理由はルターが唱えた「信仰のみ」という考え方の中心をなすパウロの思想を批判するだけの文書と考えたためであったと思われる。結局ルターの弟子たちがルターが正典から除外しようとした『ヨハネの黙示録』と共に、新約聖書については伝統的な27書とすることで問題は決着した。

 

現代では、本書が批判しているのはパウロの思想そのものではなく、それを曲解した者たちであるとの理解から、ほとんどのキリスト教徒たちが『ヤコブ書』を正典にふさわしいものとみなしている。

 

ルターは、「行い」をカトリックの儀式的要求事項として理解してしまったのでしょうか、とも読み取れます。

ヤコブ書のいう「行い」は、ユダヤ教儀式的要求事項を満たす行いではなく、
憐れみの行為としての正しい行いを意味しています。(私の聖書への書き込み)
 
ヤコブの手紙に対抗するとか、反論するとか言う意味ではありませんが、
私はこの御言葉も大事にしています。
 
詩編の46:10口語訳
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」
 
静まって神との時間を御言葉を介して過ごす時に、
憐れみの行為としての行いも自然体で、導かれてさせていただけるのだと思います。
あわれみの行為も御霊の実であり、
憐れみの行為が神を礼拝することの代用にはならないのだと思います。
 
   
 
 
祈りは静まる祈りだけでなく、行動する祈りがあるのだと思った時代がありました。
聖書をそれほど読まなくても、活動で信仰表明できるのではないのか
とのささやきに耳を傾けてしまいそうな時がありました。
 
しかし、御言葉に(有名なお気に入りの御言葉だけでなく)すがるしかないように導かれたのは、
神様の深い憐れみだったと思います。
 
そもそも、祈りを、静まる祈り、行動する祈り、二種類に分けてしまうことそのものが間違いだと気づくようになりました。
神様と向かい合う、対峙する、神様の中に入っていく、
神様が包んでくださる、そうした神様との日々の静まる時間がまずあって、
その結果、といいますか、神様が行動へ押し出してくださる。
 
愛のわざとは、そういうことではないだろうか。
愛のわざとは、御霊の実、御霊の働きではないだろうか・・・
 
 
 
マラナ・タ
昨日、O・ハレスビーの読み物に触発され、書き始めた時は昨日の朝。
安息日学校ガイドに触発されて、さらに時間が過ぎて、
結局のところ、一日半の時間が経過して、なんだか、タイトルから、
はみ出してしまった内容になってしまいましたが・・・