ごきげんよう! さわこです。
 
 
昨日の聖句日めくり。前を通るたびに何度も読みました。
朝になって、破ろうとした時、あっ! そうだったのか。。。。。
私はこの聖句に30年来、励まされ期待して祈って来ました。
 
しかし、それは、ある面において、的外れであったと気づいたのです。
私の期待は、聖ではなく俗、俗の領域に閉じ込められていたのでした。
 

 

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」
と祈ること、祈っても良いことを主イエスは教えて下さった。
実際のパンのこと、ご飯のこと。
実際的な物質的な願いを祈り、その願い通りに、祈りが答えられる。 
もちろん、ご飯を願い、与えられたのが、パンやうどん、蕎麦、そうめん、パスタなどであるかもしれない。 
食べたいものはお米なの!小麦の加工品じゃない!と駄々をこねる子どもじみた人は例外として。
その日の空腹を満たすことができたなら、祈りは答えられた。
 
衣食足りて礼節を知る。日本の格言の一つ。
最低限の衣食住が満たされなければ、人としての品格が育つのは難しい。
衣食住が足りていても、愛がなければ、人の心は育たない。
 
その愛は、究極的愛は、物質的愛や人間的愛、ヒューマ二ズムの愛を超えている。
アガペと呼ばれる神の愛。
その愛だけが心の渇きを癒やしてくれる。渇くことのない水。
 
ヤコブの井戸でサマリヤの女にイエスが話された言葉。
ヨハネによる福音書4章より
14節 しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。
    わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧きでる。
 
 
万事が益となるとは、万事とは❓
仕事、経済、健康、世のため人のためになることにつながる成功。
下積みの時代がいかに長かろうと。 
かならず、評価されると。
その人の死後にやっと評価された、例えば、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのような芸術家は一人だけではない。
地上人生で報われないまま、死んでゆく人がいかに多くいることか。
万事を、地上人生の枠内で考えるなら、聖書のこの言葉も、世の名言の一つでしかない。
 
世の中から見捨てられたような人をも見捨てないのが、神であるはず。
特に聖書の神は、それが、看板。(俗的語彙を使って申し訳ない)
それを標榜しているのがキリスト教ではないか。
 
見捨てられない、つまり、救われる。
地上人生で、報われなくても、つまり、現世ご利益としての救いがなくても、
それを超えた究極的な救いに入ることができる。
それが「万事が益となる」ことではないのだろうか・・・
 
と、日めくりカレンダーの聖句から、導かれたのでした。
 
 
旧約聖書の預言者たちも、バプテスマのヨハネも、新約時代の使徒たちも。
地の果てまで福音を伝えに行って、殉教した信者たちも。
この世の地上人生は、人の目には悲惨でした・・・
 
マラナ・タ
この万事とは、永遠につながる万事でなくてはならないのではないだろうか。