ごきげんよう!さわこです。

「モーセが造った青銅の蛇」 の解説 その2

 

エレン・ホワイト選集 「各時代の希望  第17章 ニコデモ」から 抜粋します。

 

ニコデモはユダヤ国民の中でも高い信任の地位を占めていた。

高い教育を受け、並々ならぬ才能を持ち、国民議会の名誉ある議員であった。

ナザレのイエスの語られた教訓が強い印象を与えたので、

もっとイエスから直接学びたいと望んでいたのだ。

 

祭司や律法学者、ファリサイ派たちがイエスを憎んでいるのを知りながら、

その考えにすべての人が賛成しているわけではなかった。

 

ユダヤの歴史から、ユダヤ人がローマ人に支配されているのは、

神からの譴責を頑固に拒んだ結果であることが分かっている人たちもいたのである。

祭司や役人たちが、イエスに対して謀を巡らしすことによって、父祖たちと同じ道をたどり、

新たな災難がもたらされることを恐れていた人たちの一人がニコデモであった。

 

サンヒドリンの会議でも、イエスに対してどういう方針を取るのか討議されたときも、

ニコデモは慎重さと穏健さを持って忠告した。

 

イエスの言葉を聞いてから、ニコデモはメシヤに関する預言を熱心に研究した。

そして確信を強めていった。

そして、人目をはばかって夜が来るのを待って訪れたのだった。

 

イエスはニコデモにこう言われた。

「あなたにとって必要なのは、理論的な知識よりも、むしろ霊的な生まれ変わりである。

あなたは新しい心を持つ必要がある。」

あなたは天の事物を理解できる前に、上からの新しい命を受けなくてはならない。

 

ニコデモ自身も、ユダヤ人の間に霊性が欠けており、

頑迷さと世俗的野心に覆いに支配されていることを感じていた。

 

しかし、ニコデモはイスラエル人として生まれたおかげで

自分は必ず神の御国に入るものと考えていた。

自分が変化する必要があるとは思わなかった。

だから救い主の言葉に驚いたのであった。

 

クリスチャンの生活は、古いものを修正したり改良したりすることではなくて、

性質が生まれ変わることである。

自我と罪に対する死があり、全く新しいいのちがある。

 

限りある人間の頭脳では

あがないの働きを理解することは不可能である。

贖いの奥義は、人間の知識を超越している。

 

われわれは、あがないの発端はこの世において個人的な経験を通して知ることができる。

しかし、その結果は永遠の時代にまで及んでいる。

 

救い主が、新生について説明された時、ニコデモはこの変化が自分のうちに行われるようにと切望した。

イエスは、この思いに対して「ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまたあげられなければならない。

それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」と言われた。(ヨハネ3:14,15)

 

モーセに率いれられてエジプトから脱出した時のこと、

あげられた青銅の蛇の象徴的出来事をニコデモはよく知っていた。

この象徴によって、ニコデモは救い主の使命をはっきりと悟った。

 

なぜ、キリストの贖いの象徴が、蛇によって表わされたのだろうか?

これは、私の疑問だった。

エレン・ホワイトは、このように書いています。

 

滅ぼす蛇の形に作られた像が、罪を犯した人々の癒しのためにあげられたように、

ローマ3:3を引用して「罪の肉のように」つくられたお方が、贖い主となられるのであった。

ローマ3:3「・・・すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。」

 

イスラエル人の多くは、いけにえの儀式そのものに彼らを罪から解放する力があると思っていた。

青銅の蛇に価値がなかったように、

いけにえの儀式そのものにも価値がないことを

彼らに教えようと神は望まれた。

それは、彼らの心を救い主に向けさせるのであった。

 

罪の赦しは、キリストへの信仰を表わす以外に、自分では何もできない。

彼らは、モーセを通して与えられた神の御言葉を信じなければならなかった。

論争や議論によっては、魂の光が与えられない。

 

ニコデモは、教訓を受け入れてそれを持ち帰った。

そして、魂にいのちを受けるために、新しい方法で聖書を調べた。

聖霊の導きに実をゆだねた時、彼は天の王国を見はじめた。

 

信仰を通してわれわれは神の恵みを受ける。

だが、信仰はわれわれの救い主ではない。

信仰そのものには功績がない。

信仰は、キリストをしっかりとらえて、

彼の功績すなわち罪からの救いを我がものとする手である。

 

主イエスの昇天後、弟子たちが迫害のために離散した時、

ニコデモは大胆に前面に現れた。