ごきげんよう! さわこです。

 

 
「ほんとうの祈り」尾山令仁著 友が貸してくれました。
クリスチャンとは、どういう人でしょうか。
クリスチャンとは祈る人です。
では、その祈りはほんとうの祈りと言えるのか。
尾山先生のこの本から再吟味しないではおられなくなりました。
 
「聞かれない祈り」から  紹介します。
 
もし、私たちの求めがすべて私たちの求める通りに聞かれたとしたら、
それは神ではなく、私たちの召使いになってしまうでしょう。
そこで、聞かれない祈りについて考えてみましょう。
 
①すぐには聞かれない。
②自分の思い通りには聞かれない。
③私たちに罪があるために聞かれない。
 
この花は、
トランペットエンゼル、エンゼルトランペット、天使のラッパ
などと呼ばれています。
夕方から夜にかけていい匂いを放つとか。
 
 
 
①すぐには聞かれない・・・・
私たちは性急に物事を考えたがるので、祈ったことがすぐに答えられないと、
神は聞いてくださらないのだと思いがちです。
しかし、神は、私たちにとって最も良い時期をご存知で、
その時まで私たちの求めに対して答えるのをお待ちになることがあります。
長い目で見れば、神は私たちの祈りに応えてくださるわけですから、
祈りを聞いてくださっているのですが、私たちの側からすると、
いつまで経っても聞かれないと考えてしまいます。
 
こういう場合、私たちが学ばなければならないことは、
すぐに神が答えてくださらなくても、
神は私たちにとって最善の時をご存知でなのですから、
神に時間を差し上げ、待つ忍耐を持つということです。
 
忍耐の信仰のない人は、神が自分の祈りに答えてくださらないのだと思いがちです。
神の聞かれる時間を自分で決めて書かかるという間違いを犯していることになります。
 
 
、こんなに曇っていた北山が、 午後になると青空と夏雲が。
  
 
②自分の思い通りには聞かれない・・・
このようにならなければ、神は私の祈りに答えてくださってはいないのだというのも、
自分の思い込みではないでしょうか。
この思い込みをしている人が案外多くて、そのため神は
自分の祈りを聞いてはくださらないのだと思っているのです。
つまり、祈りの聞かれ方を自分で決めてかかっている間違いを犯しています。
私たちが神の御心を知ろうとする時、自分の考えや感情を捨てなければなりません。
そうでないと、神の御心を正しく知ることはできないのです。
自分の先入観が邪魔をして、冷静に神の御心を知ることができなくなるのです。
 
そして、もっと危険なことは、自分の内にある考えや感情を、
神の御心と取り違えてしまうことすらあります。
ですから、自分の考えや感情という先入観をすべて捨ててしまうところから始めなければなりません。
 
祈りは、必ずしも自分の思い通りには聞かれません。
神の御心の通りに聞かれます。
ですから、神の御心を知るために、
私たちはもっと深く御言葉を読み、御言葉に聞く必要があります。
 
神は、私たちに自分の思い通りに聞かれない祈りによって、
私たちに御心を学ばせようとしておられるのです。
 
このことが分かれば、自分の思いの通りに主が聞いてくださらないことが、
かえって主お恵みによるものなのだということがよくわかると思います。
 
③私たちに罪があるために聞かれない・・・
これは、私たちが罪を持っているために、神が私たちの祈りを聞いてくださらない場合です。
ここでは、私たちが罪があるのを知っていながら、祈るということを主は問題にしておられるわけです。
主をごまかし欺くことはできません。
自分の内にある罪を、主が御覧になっている通りに告白し、主の赦しを頂き、清めて頂くことが必要です。
 
私たちはしばしば、神が御覧になっているのと同じように告白しないで、
極めて抽象的に、また漠然とした告白をすることがあります。
 
たとえば「この罪人を憐れんでください」「私は罪深い者です」「私の罪を清めてください」
このように祈ってはいないでしょうか。
 
神は私たちの罪をもっと具体的に御覧になっておられます。
ですから、現実をぼやかすような言い方ではなく、
神が御覧になっておられるままに告白しなければなりません。
その時、主は私たちの罪を赦し清めてくださいます。
 
このことがはっきりなされないままにいくら祈っても、
主は決して私たちの祈りを聞いてはくださいません。
 
主が受け入れてくださる祈りは、砕かれた悔いた心からの祈りなのです。
このことがわかれば、あのパリサイ人のように、(ルカ18:11-12)
傲慢で頑なな心のまま祈るような愚かなことをしないで済むでしょう。
                                
                                      以上引用終わり
 
雨明けは近いでしょうか。夏到来を思わせる太陽が
   
 
繰り返して書きます。
極めて抽象的に、また漠然とした告白をすることがあります。
たとえば「この罪人を憐れんでください」「私は罪深い者です」「私の罪を清めてください」
このように祈ってはいないでしょうか。
 
密室の個人的な祈りの時や実際に迷惑を掛けた人を前にしての祈りの時ならば、
具体的に正直に祈るべきです。
しかし、公的な祈りの時や、その出来事を全く知らない人たちの前で祈る時にも、
具体的な状況をつぶさに述べる祈りをしなさいと、筆者の先生はお勧めしているのではないのです。
 
密室で神様と二人だけの祈りの時に、
抽象的な漠然とした信仰用語での祈りに終始してしまうことを戒めているのです。
それは、形式的で商品見本のようで、祈る人の呻きも叫びも悔いる思いも伝わらないからです。
神様と私。二人だけでいるときに、取り繕った一般的な神学用語ばかりの祈りをささげるならば、
祈りが聞かれるとか、聞かれないとか言う以前の問題であり、神様と私との関係性が
表面的なものになってしまうのではないでしょうか。
 
「この罪人を憐れんでください」「私は罪深い者です」「私の罪を清めてください」
この祈りの言葉は、短くて大きくて深くて、瞬時に祈る時や
深い呼吸をしながら瞑想の祈りをする時に
自分の心を空っぽにするときに、十字架の元に私を導いていってくれます。
 
 
マラナ・タ
父なる神よ、あなたの憐れみを待ち望みます。
主イエス・キリスト、われ罪人をあわれみたまえ。