ごきげんよう!さわこです。

 

ローマ人への手紙8章から  続きです。

 

誰が、私たちを罪ありとするのですか。

死んでくださった方、

いや、よみがえれた方であるキリスト・イエスが、

神の右の座に着き、しかも私たちのために、

執り成していてくださるのです。ローマ8の34

 

聖書には、実に「罪」「罪びと」という言葉が出てきます。

 

小学6年生の子どもたちが言いました。

「教会では、罪、という言葉をいっぱい聞くよ。罪、罪、罪だ」

 

クリスチャンホームで生まれ育った人に聞きました。

「自分のことを罪人だといつから自覚しましたか」

その人は、

「そう言われて育ってきたから、気づけば、人間はみな罪びとだと思っていました」

 

「では、どういう時に、自分は罪びとだと思いましたか」

 

「献金を入れるふりして、手の中にお金を握ったままで入れなかったとき、

親に嘘をついて買い食いした時・・・いろいろね・・・してはいけないことを、

わかりながら、したことなどたくさんあったね。」

 

「そういう時、自分の罪を自覚したのですね」

 

「そうなりますね」

 

「私はクリスチャン家庭で育ちませんでしたけれど、

実に生真面目な子供でしたから、

あなたのようなことはしない子供でした。うそをついたり、

悪いことをしたりして叱られたことはなかったのです。

ですから、そういう意味では、罪びとの自覚は持ちませんでした。

学校でも、おとなしい生徒でしたし、問題も起こしませんし、

校則を破ることもしませんでした。

 

つまり、規則破り「校則違反・法律違反」と言った意味での

犯罪行為さえしなければ罪を犯すことが無い。

 

しかし、聖書の「罪」は、そういうことではなく、根源的な意味です。

神を信じないこと、神の規則を意図的に破ること。

神を愛さないこと、人を愛さないこと。

 

神様のご品性を知り、神様の戒めを知っていくと、

人間の良識・常識を超えた高い水準での道徳律が記されていて、

知らないでしてきたことが、戒めに反していたことに、

今更ながら知るわけです。

そして、ようやく、罪悪感が遅ればせながら湧いてくるわけです。

 

「神様に頼らないで、自分で頑張った私は罪を犯しました。悔い改めます。神様お許し下さい」

と、自分が真面目にがんばったことをお詫びするお祈りを聞いて驚くこともありました。

 

頑張って成功したことを自慢したり、高慢な態度をとったりするようになれば、

人としての品格がありません。そういう意味では、人として恥ずかしいことです。

 

頑張って成功したら「頑張る力をくださった神様ありがとうございます」

と祈るのではなく、

「神様に祈ることもしないで、自分の力で頑張った罪人をお許しください」

という祈りをおささげすることを不思議に感じるのは、

私がクリスチャンになり切っていないからなのか?と感じたりしたこともあります。

 

クリスチャンたちから、祈ることをしていませんでしたという告白を聞くたびに、

祈っているはずなのに、祈りが不十分だと言う意味かしら?

祈りを忘れるとは、神様を忘れるのかしら?

まさかね・・・???

 

私たちの祈りは、いくら祈っても完全な祈りには程遠い。

イエス様のように、血の汗を流す祈りをすることができない私たち。

祈りというには、あまりにお粗末すぎる。

そういう思いが、神を知っている人の思いの底に流れているのでしょう。

 

イエス様の弟子たちが「主よ、祈ることを教えてください」とお願いしたように、

私たちも「主よ、どう祈ればよいのかわかりません。祈りを教えてください」

と、いつも、祈りながら、聖書を探るのです。

 

聖書は祈りの宝庫です。

聖書が祈りを教えてくれます。

 

 

誰が、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。

苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、

裸ですか、危険ですか、剣ですか。ローマ8:35

 

昨日6月30日の聖句日めくりカレンダー。

ローマ8:39でした。