ごきげんよう!さわこです。

ハルジオンかしら? 夏になっても咲いています。

それなら、ヒメジョオンかしら。

 

ローマ人への手紙 7章から

 

私の兄弟たちよ、あなたがたよ、私たちよ、とパウロは呼びかけています。

 

あなたがたもキリストの体を通して、律法に対して死んでいるのです。

それは、あなたがたが他のかた、

すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、  

こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。4節

 

しかし、今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。

その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。6節

   

     ここを私なりに説明しますと、

     イエス様がすべての人間の身代わりになって、

     罪の支払う報酬である死を引き受けて、

     十字架刑によって死んでくださったので、

     罪人は、死ななくてはならないという「律法」の問題は解決したのです。

     古い文字とは、それを書いてある律法のこと。

 

     新しい御霊によって、とは、

     すべての人間の代わりに身代わりになってくださったお方が

     イエス・キリストであることを信じることです。

     イエス様の十字架刑は、旧約聖書の預言として、幕屋(聖所、神殿)で

     子羊(動物)のいけにえが、イエスの象徴として、ささげられていました。

 

     その方法についてのこと細かな規定が

     モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に記録されています。

     この記録を、古い文字、律法(戒め)と書いているのです。

     預言が成就したので、今まで神殿でささげられていた子羊のいけにえを

     おささげする必要はなくなったのです。

     

     律法は不要となったのか?律法はよくないものなのか?

     パウロは、十字架で贖いが終わったから、不要だとは言っていません。

 

 

それでは、どのように言うべきでしょうか。

律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。

むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。7節

 

律法は聖なる者です。また戒めも聖なるものであり、正しく善いものです。 12節

 

私は、自分の内に、善が住んでいないことを知っています。

私には善いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。18節

 

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。 19節

 

私が、自分ではしたくないことをしているなら、それを行っているのは、

もはや私ではなく、わたしの内に住んでいる罪です。 20節

 

そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、

私は見いだします。21節

 

私は本当に惨めな人間です。

誰がこの死のからだから、わたしを救い出してくれるのでしょうか。24節

 

私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します・・・25節

 

 

マラナ・タ

律法は、何が悪であり罪であるかを教えるもの。

律法は、聖なるもの、戒めも聖なるもの。

しかし、救いは、文字で書かれた律法にはない。

救いは、律法を与えられたお方から。

律法そのものであるお方から。