ごきげんよう!さわこです。
夫の家庭菜園。
ピーマンの初なりです。
今朝、安息日学校聖書研究ガイドを読みながら、
① 一つ目のデボーション。
十字架のイエスを見上げる時、
神は人を偏りみないお方であることが分かります。
そのお方のご品性を知ると、私たちは自分自身を、
さも、ひとかどのものであるかのように思っていたことに気づき恥いるのです。
私たちは互いに、イエスにより贖われた魂として会うことが出来るように変えられるのです。
私たちは御霊により一致し天来の原則を理解できるようになるのです。
続いて、昨日の教会祈祷会で学べたことを振り返りました。
② 振り返りのデボーション、二つ目。
「各時代の大争闘」12章フランスの宗教改革から「改革者ベルカンとベルカンの殉教」を輪読。
ベルカンは、道徳的に潔白で、かつ学問に熱心な貴族の出の上品で勇敢な騎士でした。
彼はルター派を嫌悪していたにもかかわらず、
聖書によって「ローマカトリックの教義ではなくルターの教義」を見出したのです。
フランスの貴族の中でも最も博識で雄弁で、不屈の勇気と熱心の持ち主であり、
国王から愛顧をうけ、宮廷に影響力のある存在でした。
EGホワイトは、ベルカンのことを「摂理によって聖書に導かれた」と書いていました。
神の摂理とは何でしょうか。それは「神の約束とその実現」です。
聖書に書かれたテーマ「福音」とは、神の人類救済計画です。
つまり、神の約束の実現のために神が用いられる人たちがいて、
その人たちが神のために働かざる得なくなって行く福音の前進と迫害のドラマを
「摂理によって聖霊に導かれる」と表現しているのだと思いました。
ルターの宗教改革(1517年―1648年)の数百年も前から、
自国語で書かれた聖書の写本をもっていたワルデンセスの人々がいました。
大ブリテンにもスコットランドにも、中央アフリカにもアルメニアにも、
ローマ法王権の侵入に抵抗して安息日を遵守していた人々がいたのです。
彼らは数世紀にわたってローマ教から迫害を受け続けてきたのです。
ローマ法王権の支配下にあった中からも、ウィクリフ、フス、匕エロニムスが現れ、
ルター、ベルカンと用いて来られたところまでを学びました。
「各時代の大争闘」は第42章まであります。まだ30章も残っています。
2018年7月5日から輪読を開始しましたから、1年で12章。
計算すると後三年はかかるかしら。
神の御手のうちにある宗教改革、そのあらましを学んでいます。
神の宗教改革は進行中ですが、いよいよ、終盤を迎えようとしています。
私たちはその終末期に生きています。
日々イエスの内に生き、御言葉を蓄え、御霊に導かれ、
残りの民の一人として生かされて生きる、その選択を日々新たにすること。
それが昨日の祈祷会の確認でした
③ 三つ目のデボーション。
いつの時代にも、いかなる時にも
キリスト者として生きるとは、
神の支配下に居続けるとは、
キリストの内に生きるということ。
私の内にキリストの御霊が居てくださるということ。
私は、野の草に過ぎない。
私は通路に過ぎない。土の器に過ぎない。
悲壮感を持って神のために生きるとか、
熱情を持って神のための働きに従事するとか、とても言えない。
にもかかわらず、何かなし得られるとしたら、
無自覚のうちに神のために働いていた結果に過ぎない。
なぜなら、神のための働きは御霊によるのだから。
主が私を 用いてくださっても、
用いてくださらなくても、
主の意のままにあってくださればそれでいい。
神の時の、神様の時間枠で、
神様が崇められる時に、
もし、用いてくださったとしても、
自分には分からないかもしれない。
それでいい。
葦の葉、青々と。
御言葉はわたしの内に成就している。
「彼は傷ついた葦を折らず
くすぶる灯心を消さない。
異邦人は彼の名に望みをかける」
マタイ12:20,21
聖霊の宮としての私のうちで、キリストの御霊が
たとえくすぶる灯心であっても燃え続けているのは、
キリストが共にいてくださるから。
傷ついても立ち上がることができたのは、
傷ついた葦を折らないお方が、
やさしく手を添えてくださったから。
マラナ・タ
私が、今日という日を生きていられるのは、
キリスト様が共にいてくださるから。