ごきげんよう!さわこです。
「軛を負わされたなら、黙して一人座っているがよい。塵に口をつけよ。望みが見出せるかもしれない」
哀歌3章28節
1人の信仰の友が、実際に礼拝堂の床に口をつけてやってみたのだと言いました。
ああ、彼女も苦しい時代が続いたのだ・・・と私は思いました。
信仰の先輩が、
「重い軛を負わされたとき、神の御前に黙することしかできなかった。」と
この聖句を引いて語ってくださったことがありました。その時、私は黙する祈りを知ったのです。
私は、初めてこの聖句に出会う思いを持って、「主よ、お語り下さい」と願い求めました。
主はお答えくださいました。
① 軛とは・・・
クリスチャンになった者は、その時点で「軛(くびき)」を負わせていただているということにまず気づきました。
次に、イエス様は「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と仰ったことを思いました。
② そして、一人で座る時には、1人ではない。
イエス様が共におられる(インマニエル、主われらと共にいます)ことも分かりました。
なぜなら、私を一人にしないということがイエス様のお約束だからです。
③ 口に塵をつけよとは・・・
先ず、塵とは・・・と思い巡らせました。塵とは土のちり。
神様は土の塵でアダムを造られました。
私たちは粘土、神様は陶工、それが私と神様の関係です。
私は神様に造られたもの。神様に愛された者。神様から命の息を吹き込まれて生きる者となった者。
そのことをしっかり覚えよ、という意味だと分かりました。
その恵みの中に留まり続けるならば、望みは見出せるのです。確実に。
④ 私はこのように主から賜った気づきを友に伝えました。
友からは
「造り主の御手に戻れ、ということなのかもしれませんね」と返ってきました。
聖霊様が私たちに働いておられました。
彼女は、私の言わんとしたことを
「軛を負わされたなら、造り主のもとに立ち帰れと」と
短い言葉でまとめてくれました。
彼女も御霊の働きを強く感じ取られて返ってきました。
さらに、
「ちり=土=粘土=陶工 創世記からエレミヤ書。
あなたが、このような発想で御言葉の学びを深めて行くのを
私もその場で体験したい」 と言ってくれました。
彼女と私は遠距離の「祷友」祈祷の友なのです。
「あなたの深読み友の会に入れて頂きたいわ。」
との彼女の言葉に、
「聖書深読み友の会」が結成されたら、どんなに霊的喜びが大きいかと思いました。
「私は、聖書通読は年に一回しかできないけれど、
通読とヨブ的試練を頂いて来たこと、この二つによって、
私の霊性は刺激を受けて、キーワードとなる御言葉が連想ゲームのようにつながっていく。
この不思議な恵みにあずかるのです」 と、お返事をしました。
彼女からは、
「言葉が力を持って迫ってきますね。『言は神であった』 ですものね。」
マラナ・タ
春の浜辺を散策しながら、
祷友との昨夜のメールの往復の感動が
私のたましいを喜ばせてくれていました。