ごきげんよう!さわこです。

 

昨日の聖句日めくりカレンダーです。

今日の祈祷週の読み物のタイトルは「聖餐式―その今日的意義」

昨日は日めくりを見るたびに、聖餐式の直前におあずかりする洗足式について思っていたのです。

今日の「聖餐式」がタイトルとなっている祈祷会の備えのようでありました。

 

 

SDA教会は、毎週礼拝に聖餐式をしません。

カトリックや聖公会は、聖餐式そのものが礼拝の中心のようです。

どちらの礼拝にも、参加した経験があります。

 

SDAは三カ月ごとに「洗足式・聖餐式」を執り行います。

洗足式にあずかることなく、聖餐式だけを・・・ということは赦されていません。

この儀式は二つで一つなのです。

洗足式は、男女に分かれて、別々の場所で、二人一組になってあずかります。

洗面器に水を入れて、きれいなタオルを持って、

先ず最初の人がお祈りをささげてから相手の足を洗います。

そして新しい水を入れたたらいを持ってきて、交代します。

 

互いのために祈り合うのです。

私は、相手の方の足を洗わせていただく時、

私の手をイエス様が支えて包んでくださっている状況を想像します。

想像ですが、瞑想の祈りであり、霊的には現実なのです。

有難い厳粛な時です。

母の生前には、母と組になってこの儀式におあずかりしました。

母と娘が、互いに足を洗い合う祈り合うという時には、

同じ信仰を頂いている一致の喜びを味わいます。

 

  教会のご近所の塀の隙間から、伸びているみずみずしいグリーンの葉

 

しかし、面識のない、しかも汚れた異臭を漂わせる人と組になった時はどうでしょうか。

イエス様のような心を持つことができるでしょうか。

その人と私の間に障壁はないでしょうか。

進んでその人の汚れた臭い足を洗って差し上げることができるでしょうか。

そういうときこそ、信仰の真偽が試される時かもしれません。

 

今日の読み物は、カースト制度が根強く残っているインドの小さな町のキリスト教会の

洗足式の場面でした。

一か月前にクリスチャンになったばかりの男性(ラヴィ・アナンダン)が

「不可触賤民」である男性の足を自ら進んで洗い始めたのです。

ラヴィ・アナンダンは、そのインドの小さな教会に福音の本質的な意味を教えたのです。

ラヴィ・アナンダンによって、イエス・キリストにおいてすべての隔ての壁が破壊され、

新たな人間が出現したことのあらわれとなりました。

このような内容でした・・・

 

 

もし、私の教会にこのようなことが起きたら、私はどうするでしょうか。

 

その人が、イエス様を信じてクリスチャンとして生きていきたいと

明確な意思表示をしているならば、覚悟が決まりそうです。

 

しかし、その点が不鮮明であり、洗足式でざわついている時を利用して

盗みを働くことを目的としているらしい人であったとしたら、どうでしょう?

 

数日前から、「要注意人物が市内の教会を荒らしている」との通達が警察から来ていたらどうでしょうか。

 

その人が本心から足を洗うことを望んでいるかどうか、不明であるかもしれない。

「本心からです」と、嘘をついて油断させようとしているのかもしれない。

 

「たとえ、嘘であっても、心の中は神様しかわからないから、

騙されてあげたっていいのではないのか、という考えもあるでしょう。

誰からも信用されなかった人が、キリスト教会には信用されたということが

きっかけとなって本物の悔い改めにつながる可能性だってある」

という意見も出てきそうです。 「レ・ミゼラブル」のような世界です。

 

「こういう、例外的な、事件が起きた場合の時のことを考えておくことは必要かもしれません。」

と発言したら、

「さわこったら、また、もし・・・もし・・・と空想力を働かせてかき混ぜるんだから」

と誰かに、意見されて終わるのかもしれません。

 

あるいは、

「こういうことを例外的事件ととらえることそのものが間違っており、

私たちは全員罪人であるのに、赦され招かれていることを思うなら、

その人の動機について詮索すること自体が罪深いのであるから、

受け入れるべきです。当たり前でしょう。」

このような美しい発言も当然のごとく出て来ると思います。

 

私の心も頭脳も分裂状態になって、私の中で相反する考えがぐるぐる巡っています。

 

こういう時に「イエス様ならどうなさるか」とよく言われます。

「しかし、私たちは神様じゃないんです。現実的に考えましょう。教会堂は、個人財産ではありません。」

とクールな意見も出て来るかもしれません。

 

被害を受けたとしても 「神様が解決してくれる心配無用!」 という意見もあります。

 

「教会という場所こそ、そういう行き場所のない人が自由に使える場として提供すべきです」

という意見もあるかもしれません。

 

 

 

 

昨日、この聖句を読んだ時には、自己を内省し、

神様に許された者同士が、互いに赦し合い愛し合うことでの一致として、

洗足式を考えていましたが、読み物の例話を読むことによって、

思ってもいない方向に、思考は持っていかれました。

 

結論が出せない私です。

 

マラナ・タ

今日の祈祷会は、家庭の都合で欠席しました。

どんな意見が出てきたのでしょうか。

「自分の無力さに直面しています。主よ、あなたの天来の知恵を求めます。」

と無力さむき出しのお祈りを捧げるしかない私です。