ごきげんよう!さわこです。

 

      

 

  

 

昨夕の三日月。昇りゆく今朝の太陽。 

空を見上げるたびに神様のリズム、サイクル、

秩序の完全な美しさに涙ぐみます。

 

 

  

 

 

「今日の光・4月9日」でデボーション。

「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、

非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、

聖書を調べていた。」   使徒言行録17:11

ここのユダヤ人たちとは、ベレヤという町の人々です。

 

この聖句は、私の大好きな聖句の一つ。

クリスチャンだと自負するなら、ここのユダヤ人たちを見習わねばと、

自分に言い聞かして倣おうと努めてします。

 

それは、自力で頑張っているのではないのです。

イエス様に出会ってからは、

怠け者で努力することの苦手だった私が、

聖書を読むということに関しては、

もう、どうにも止まらなくなってしまったという奇蹟なのです。

 

  

 

聖書を読むことは、基督者となったものの常識、なんて言ったら、

ある人にとっては皮肉に聞こえたり、

咎められているように感じたりするかもしれません。

 

「いいのよ、いいのよ。聖書を読まなくっても、

安息日を覚えてお礼拝に出席さえしていれば、それで十分なのだから。」

と、慰めることだってできるかもしれません。

「ワタシだって、読んでいないのだから、みんなそうよ」って

適当に言ってしまうことだってできます。

(赤信号、みんなで渡れば怖くない・・・ひと昔前のギャグ)

 

聖書を毎日読むように勧めることで

「私は読めてないから、教会に来る資格がないとでもいうのですか」

と言われたりしたらどうしましょうか?

 

「そんなことをいうから、あの人は来なくなったのですよ」

と陰でこそこそ言われたらどうしましょうか?

 

思いやりの欠如ですよ、と咎められたらどうしましょうか?

 

十人十色、人それぞれ。

言うことを、万人が受け入れてくれるのではないのです。

否定的に受け止められることばかりに耳を傾けて、

心を痛めなくてもいいのだと、思うようになりました。

 

そういう人に関しては、神様におゆだねしたらいいのです。

人間には、他者の心を変えることなどできません。

「はい、そうですか・・・」と引き下がり(足の塵を払って)。

 

神様、あの方のことはあなた様にお任せいたします。

「神様の時」をどうか早めてくださいますように。

と祈る自由を行使すればよいのですから。

 

 

「不用意に聖書を読むだけでは十分でないことを、私はすべての人に訴えたい。

私たちは探求しなければならない。」 エレン・G・ホワイト

私はこの言葉に共感します。

 

聖書を読んでも、ただ読み流すだけでは十分ではないと思います。

いくら立派な解説であったとしても、感動的なメッセージであったとしても、

聞くだけで終わらせてよいでしょうか。

 

聞いたことを、自分自身で聖書のページを捜し、(ベレヤの人のように)

自分の内におられるキリスト様に聞いたことをお話しする時、(内住してくださるキリスト様

聞くは、聴くとなり、言葉は命の御言葉となって、自分自身の内を巡るのではないでしょうか。

 

その甘美な交わりはきっと私たちを養い、慰め、支え、励まし、

うち倒れた時に、立ち上がらせてくださいます。

そんな体験を私は繰り返しています。

 

マラナ・タ

マラナ・タとは、「主イエスよ、来たりませ」という聖書の言葉アラム語です。

キリスト様が、わたしの内にお住まいくださるとき、キリスト様の命が私に流れ込みます。