ごきげんよう!さわこです。

 

         

 

イエスが天で私たちのために嘆願してくださる一方で、

聖霊は私たちの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせてくださる。

 

毎朝の読み物「今日の光 3月26日」の最後の行に書かれていました。

私たちが今、どういう立場にいるのかがはっきりわかりました。

 

1、私たちの贖い主であるイエス様は、天の聖所で(1844年10月22日からは、至聖所に入られた)

  私たちのために嘆願の祈りをささげてくださっている。

 

2、聖霊様の働きが明確に書かれている。聖霊様は私たちの内に働いてくださるお方。

  そして、神様の御心のままに働いてくださるお方。

  私たちが、善きことをしたいと望む心にも、行動に移すことにも、聖霊の絶大な助けがあるのです。

  フィリピ2:13「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」

 

              

         

 

一昨日の聖書通読、旧約聖書で、

私たちが卑しめられたとき 主は心に留められた。主の恵みはこしえまで。

                                                                   詩篇136:23 新改訳2017

ここを読んだ時、思い出したのです。

私たちが卑しめられた時・・・他にも、この表現があったぞ」と。

新共同訳の詩編の頁をめくって探しました。

見つかりました!!!

聖句を探すときには「新共同訳」を使います。

小見出しがついていること、そして、一番読みこんでいること、赤いラインを引き、書き込みも多い。

だから、見つけやすいのです。

 

卑しめられたのは、わたしのために良いことでした。

わたしはあなたのおきてを学ぶようになりました。

                                                                 詩編119:71 新共同訳

そう、ここでした。

”卑しめられた”との表現が私の心のセンサーにひっかかっかったのです。

 

今の言葉での ”上から目線で”言われたりすると、さげすまれ、卑しめられた気持ちになるのです。

善きにつけ悪しきにつけ、批判される、評価されるとき、屈辱感を感じてしまうのです。

 

「ちょっとちょっと、えらい高みからの発言だね~」 と、いつでも笑って茶化しつつ、それとなく指摘して、

不快感を笑いで納めるという高等技術をいつでも発揮できるものでもありません。

 

いつも人を見下した物言いをする人もいます。多分、本人はまったく無自覚だと思いますが。

そんなとき、心がざわめきます。そして、自分が死んでいないなあと思うのです。

沈めのバプテスマにあずかるとは、古い自己に死に、

イエス様にあって、新しい人に生まれ変わるってことなのに・・・と、気づかされます。

 

さて、新改訳では、「卑しめ」ではなく「苦しみ」でした。

 

苦しみにあったことは わたしにとって幸せでした。

それにより、私はあなたのおきてを学びました。

                            詩編119:71 新改訳2017

 

口語訳でも

苦しみにあったことは、わたしに良い事です。

これによってわたしはあなたのおきてを

学ぶことができました。」

卑しめではなく、苦しみです。

 

ヘブライ語でもギリシャ語でも、ひとつの言葉の中に包含されている意味はいくつもあるので、

日本語に訳す時には、いくつもの意味の中から、どれを選ぶか・・・苦労すると聞きました。

 

人に卑しめられる、その屈辱感は苦しみを誘います。

 

要するに、卑しめられ苦しむことによって、

人は神様のおきてを学ぶのです。

 

卑しめられ苦しむというマイナスの出来事が、

神のおきてを深く学ぶチャンスとなるのです。

 

マイナスをプラスに転化する!!!!というのは、

パラドックス(哲学の分野で「一見間違っていそうだが正しい説」という意味、逆説)、

神様ならではの恵みの力です。

 

 

さて、昨日の通読箇所新約は、使徒言行録20章でした。

 

「・・・御言葉は、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、

あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」

                            使徒の働き20:32 新改訳2017

 

詩編では「卑しめられ、苦しむとき、神の掟を学ぶので、私にとって、あの屈辱的な辛い体験が、良いことであったと思えるようになります。」ということを学んだのです。

 

ですから、使徒言行録で、パウロは

「御言葉はあなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、

あなたがたに御国を受け継がせることができる」と書くのです。

 

さあ、今回も、旧約と新約が、ぴったりつながりました。

 

 

聖書を読まないことは、御言葉を軽んじることにつながらないでしょうか。

教育を受け、字を学ぶ機会がありながら、しかもクリスチャンになりながら、

聖書を読まないことを選択しているという人はいないはず。

聖書は何のために、神様が人間に与えられたのでしょうか。

クリスチャンであって「聖書」を読むことに価値を見いだせない、ということはあり得ません。