ごきげんよう!さわこです。
昨年の今日(2018年3月20日)のデボーションを振り返って。
ヨハネの手紙 1章1節から4節 小見出し「命の言」
私はこの1節から4節を、一日1節、4日間かけて、ドロップを口の中で舐めるように味わいました。
ひとます、ドロップ4粒の味をお伝えしたく、4日間の味わいを記録に残します。
ヨハネの手紙(1) 1章1節
「初めからあったもの、
わたしたちが聞いたもの、
目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。
すなわち、命の言について。――」(言、ことばと振り仮名がある)
初めからあったもの・・・
天地が創造される前から、永遠の昔から、あったからあった。ありてあるもの。
わたしたちが・・・
神であるイエス様が人として地上人生を送られた公生涯の3年間、共に過ごしたヨハネたちが、
聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。・・・
ヨハネたちは、100%神であるイエスが、100%と人性を取られて、この地上に生きられたので、イエスの声をイエスの言葉を聞いたのです。
この目でみたのです。
じっくりと、イエス様のそば近くでよくよく見たのです。
しかも、イエス様の手にも体にも御顔にも、自分の手で触れたのです。
何といっても神ご自身が肉体を持って、私たちの傍にいてくださったのですから。
このことを自分たちだけの思い出としてしまうことはできません。
イエス様が「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と仰いましたから。
すなわち、命の言について。――・・・
イエス様は、すなわち、言い換えるなら「命の言」なのです。
このことについてはヨハネによる福音書の1章からと、創世記の1章からも証明できます。
ヨハネ1章1節には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
イエス様は永遠の昔から永遠に「言」です。
2節「この言は、初めに神と共にあった」
3節「万物はことばによって成った。成ったもので、言によらずにったものは何一つなかった。」
ここは創世記1章においても確認できます。「神は言われた。そのようになった」神の言葉によって万物は造られました。
ヨハネによる福音書1:4「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」
ヨハネの手紙(1) 1章 2節
「この命は現れました。
御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、
わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです――。」
この命・・・
イエス様のことです。
御父と共にあったが・・・
イエス様は父なる神と共におられて、一つでありました。
私たちに現れたこの永遠の命を・・・
イエスは、人として、この地上に現れたのです。私たち人間のもとに現れたのです。
イエス様は永遠の命です。
あなたがたに証し、伝えるのです。・・・
あなたがたとは、ヨハネの手紙の読者のこと、聖書を読む人たちのこと。
つまり、今、こうして読んでいる「私」に向かって2000年の時を経て、イエスの弟子である12使徒のひとりであるヨハネが、「私」に話してくれているのです。
証しし・・・
神であるイエス様のことを語ることを「証しする」と言います。
神であるイエス様との個人的な出来事をお話することを「証し」と言います。
ヨハネがこうして手紙という方法で、伝えることの目的は
ヨハネの手紙(1)1章3節
「3節・・・あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。
わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」・・・
100%人性をとられたイエス様が、十字架で死なれ復活なさり天の御国に戻られて、100%神としてのお姿に戻られた今、
イエス様の昇天後に生まれて生きて来た者たちは、自分の目でイエスを見ることも触れることも出来ません。
直接に御声を聞くことも出来ません。
出来ることは、イエス様が「助け主」として送ってくださった聖霊の神様に助けて頂いて、
イエス様ご自身である聖書の御言葉を読むこと聞くことによって、イエス様を知り触れ見ることができるのです。
聖書を読む、聞く、祈る。それが、御父と御子との交わりなのです。
ヨハネの手紙(1)1章4節
「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ち溢れるようになるためです。」
イエスを我が神、我が救い主と信じる信仰は、
同じ持つ者たちとの交わりによって、喜びが満ち溢れるようになるのです。
マラナ・タ
一年後の2019年3月20日の今日、
一年前のデボーションを読み返して
「わたしたち」という複数形で書かれていることに気が付きました。
信仰の兄弟姉妹がどれほど必要であるか。
1人でコツコツと御言葉を読み味わい、
三位一体の神との交わることは信仰の基本であることですが、
孤立してはいけない。
信仰の友、信仰の家族の大切さです。
「わたしの信仰」と共に「わたしたちの信仰」も同じように大切。
「わたしの信仰」が育つ時、「わたしたちの信仰」も育つ。