ごきげんよう!さわこです。

 

 

数日前にある信仰者が書いてあったことを読みながら

考えたのです・・・思いを巡らせたのでした・・・

 

新しく生まれ変わる前の肉の性質との戦いと、

新しく生まれ変わったあとの肉の性質との戦いがあります。

自分がどちらの戦いをしているのかを理解することはとても大切です

新しく生まれ変わる前の戦いの目標は、

「新しく生まれ変わること」です。

 

新しく生まれ変わったあとの戦いの目標は、

「神様のご品性をあらわすこと」です。

 

生まれ変わる前の経験は、

「罪と死の法則」(ローマ8:2)の中での経験です。

罪に勝ったり負けたりの繰り返しです。

 

生まれ変わったあとの経験は、

罪との戦いというより、

肉体や外部から来る誘惑を退ける戦いです。

 

バプテスマを受けて、新しく天からいただいた心には罪の思いはありません。

けれども、私たちは、罪の性質を持った肉体の中に生きているのですから、

内外から誘惑は受けるのは免れないのです。

 

サタンは、イエス様を信じる人びとを、イエス様から引き離そうと躍起になっているのですから。

 

神様から新しくいただいた心は、本来は罪を犯すことはできないのです。

「いのちの御霊の法則」によって歩んでいるのですから。

 

 

バプテスマを受けられた後、

イエス様は荒野に導かれて行き、サタンから誘惑を受けました。

イエス様は罪のないお方ですから、

その罪なきお方が、サタンからの誘惑と戦ったのです。

御言葉を武器にして。

 

私は、福音書のこの記事を読んだ時、バプテスマを受けたばかりの自分と重ねました。

バプテスマを受けたから、「万々歳、心配することはない」と言うわけではないのだと思いました。

 

「新たな戦いが始まるのだ。しかし、イエス様がいつも戦ってくださるのだから大丈夫だ。」と思いました。

 

 

新生する前の私たちは、罪の内に生きていました。

イエス様を知って、信じて、新しく生まれ変わりたいと願ってバプテスマを受けたのです。

バプテスマを決心しようとする人には、サタンからの邪魔が入ります。

決心を妨げる勢力が暗躍するのです。

そうした不安に打ち勝つには、御霊の働きに身を任せることです。

 

そしてバプテスマにあずかって新生しました。

新しい人に生まれ変わりました。

にもかかわらず、私たちの品性は瞬時にパーフェクトに変えられることはでき得ないのです。

クリスチャンは、キリストに似た人でありますが、キリストそのものにはなれない。

キリスト様の義の衣で被って頂かなくては、汚れた衣の者であるのですから。

 

 

信仰の父であるアブラハムは嘘つきでした。妻のサラを二度も「妹」と言いました。

息子のイサクも、妻リベカを妹と偽りました。

この夫婦は双子の息子を互いにお気に入りを偏愛しました。

その息子ヤコブは兄を出し抜こうとした抜け目のない男でした。

ヤコブは4人の妻を持ちました。12人の息子のうち、ヨセフを特別に愛しました。

親たちが複数の子どものうちの1人を偏愛する時、子どもたちは傷つきます。

競争が生まれ、妬みがうまれ、家族の平和は乱されます。

ダビデは姦淫と殺人を犯しました。

 

彼らは真実の神様を伝えるために選ばれた神の民です。

にもかかわらず、その品性は、パーフェクトではありませんでした。

 

イエス様を信じるようになった者たちは、神の子となりましたが、

その時点で、新生し救われたのですが、この地上人生においては

罪の影響を受けやすい肉なる存在でもあるのです。

 

「神のご品性をあらわす」ために、いつもイエス様を見上げ、

イエス様に繋がり続けることを願い続ける決心の継続を選び取るための戦いが続くのです。

(それを聖化と言うのでしょうか)

(その結果が、御霊の実を結ぶのでしょうか)

 

生まれ変わった後の戦いとは、

信仰の成長(それを聖化)のことではないでしょうか。

いつまでも乳飲み子のままでいるのではなく、順々と成長していくこと。

命ある者、生きている者は、成長するのですから。

 

そうだ!とひらめきました。

 

エジプトの時代とエジプトから脱出してからカナンの地に入るまでの戦いを

新しく生まれ変わる前の肉の性質との戦い。

 

カナンの地に入ってから、異教の民との戦いがありますがその戦いを

新しく生まれ変わったあとの戦い。

 

そのように理解できるのではないでしょうか。

 

マラナ・タ

「聖化」の神学は、一歩間違えると、

恵みによる救いの神学を混乱させてしまうような気がします。

「聖化」を無視すると安価な恵みになりかねないですし・・・

祈りつつ、聖霊様の導きの中で、学んでいかなくてはなりません。