ごきげんよう!さわこです。
4年前の今日書いた自分の記事を読みました。
編集して再投稿します。
庭のクリスマスローズが咲きました。
私たち人類は皆、神から招かれている。
皆、救いの対象である。犯罪者も、極悪非道の人間も、である。
立派な人、道徳的な人、世の中に貢献した人、親切な人、善意の人、誠実な人、情の深い人、自己犠牲を惜しまない人、いつも喜んでいる人、寛容な人、柔和な人、自分を律することのできる人。こうした人だから救われると言うのではない。
書きながら、これって御霊の実ではないか(ガラテヤ5:22)と気づいた。
御霊の実を結んでいるかどうかで救いが決まるのか?
御霊の実は、キリストを着た人が、霊の導きに従って生きていく結果として
いつの間にか結ぶものなのではないだろうか。
悔い改めてキリストに結ばれて生きる結果ではないだろうか。
悔い改めを拒否したり、口先だけで悔い改めを装ったり、このような場合はキリストを着たとは言えない。
聖霊に導かれているかどうかは、どうやってだれが判断する?
想像の翼を広げて、
AさんからPさんまで16人の人に登場してもらって
出てきそうな意見を並べてみよう。・・・・
「あの方は、信用できません」とAさん。
「人の心の中は誰にもわかりません」とBさん。
「人を疑うのは罪です」とCさん。
「騙されたっていいじゃありませんか。それで、あの人の信仰が後からついてくるのなら」とDさん。
「では、教会が荒らされる結果になったらどうしますか」とEさん。
「喜んで犠牲になりましょう。主はよろこばれます」とFさん。
「あなたは犠牲になってもいいでしょうが、例えば子供が犠牲になったらどうなりますか」とGさん。
「神様を信頼していれば、万事は益となりますよ」とHさん。
「思い煩いは罪ですよ」とIさん。
「あの方は×××をしています」Jさん
「人の欠点をあげつらうなんてクリスチャンのすることではありません。良いところを見つけてあげるのです」Kさん。
「神様は人を変えるお方です」Lさん。
「あの方の悔い改めは信用できません」Mさん。
「蛇のように賢くあれですよ」Nさん。
「鳩のように素直であれ、とも言いますよ」とOさん。
「互いに愛し合いなさい、ですよ」Pさん。
こうして話し合いは堂々巡り。
それぞれの信仰に基づいて、それぞれの根拠とする聖句に基づいて、
それぞれの祈りの結果として、以上のような発言は出てくるだろう。
想像力は人一倍!の私の中で、こうしたたくさんの声が聞こえてしまう。
私って多重人格?
「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。
同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
・・・そして、わたしたちがこれについて語るのも、
人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、
霊に教えられた言葉によっています。
・・・自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません・・・」
コリント第一2:11-14
マラナ・タ
純粋に純粋に、神の霊によって、
私の内の霊に語り掛けてくださる神様の御声を聴き分けたい。