ごきげんよう!さわこです。

  梅の季節になりました。

  昨日、祈祷会に向かう道で。

 

安息日学校聖書研究ガイド2月8日「さらなる研究」より

 

144000人が誰であるかは、盛んに議論されてきた問題です。

黙示録において明らかだと思えるのは、

144000人が、この地球史の終わりの時代における神の民の最終世代だということです。

 

私たちは、最終世代の人々が、苦難の時を経験するが、最後の七つの災いから守られること(※詩編91:7-16)、また、その人々の忠誠心が過去のどの世代とも違う形で試されることを知っています。

 

その集団の中に誰がいるのか、はっきり示されていません。

誰であるかは、神がご自分で秘しておられることの一つなのです。(※申命記29:28【口語訳29:29】)

そのときにならなければ、だれが救われた聖なる者たちの集団に属しているのかは分からないでしょう。

 

人間が必ずしも知る必要のないことについて、好奇心から、あの説、この説、作り話や、

仮定的な話を持ち込むことは、神の導きではありません。

神の民が、御言葉の中には教えられていないことを自分で想像して提示すのは神の御計画ではありません。

 

144000人が誰か、というよう霊的な助けにはならない問題で論争することは、神の御旨ではありません。

 

   昨日、教会の近くの公園で

 

※       詩編91編

9節     あなたは主を避けどころとし いと高き神を宿るところとした。

10節 あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。

11節 主はあなたのために、御使いに命じて  あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。

14節「彼はわたしを慕う者だから 彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。

15節 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え  苦難の襲う時、彼と共にいて助け 彼に名誉を与えよう。

16節 生涯、彼を満ちたらせ、わたしの救いを彼に見せよう。

 

※       申命記29:29

隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。

しかし、掲示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、

この律法の言葉を行うことである。

 

話し合いのための質問

「14万4000人の中にいるように、神が与えてくださった力の限りを尽くして戦おう」(エレンGホワイト)

この言葉をいかに実践できますか。

 

神が与えてくださった力の限り・・・とあります。

神が、それぞれの人に与えてくださった力は、それぞれ違います。

それぞれ、1タラントン、2タラントン、5タラントン預けられた僕たちの

タラントのたとえを思い出しました。(マタイ25:14-30)

金額が違うからといって神様の愛の大きさが違うとか、使命には貴賤があるとか、

神様の信頼度が違うとかいうことではありません。

隣の人のタラントンと比較して、いじけたり、高慢になったりするのは論外。

 

私たちは、

ゆだねられたものを力の限り用いさせていただく、という謙遜で素直な姿勢

を神様は喜んでくださるのではないでしょうか。

それが神様にお従いすること、神様の御愛に応答することではないでしょうか。

 

平和主義者は「戦おう」という表現に過敏に反応する傾向がありますが、

私たちの人生は、戦いの連続ではないでしょうか。

基本的には、サタンの誘惑との戦い、そして、清められていない古い自我との戦いに日々直面しているのではないでしょうか。

 

かみさまに「ゆだねさえすれば」神様が代わりに戦ってくださるのだから、

私たちは「果報は寝て待て」でよいのでしょうか?それが信仰の神髄なのでしょうか?

そういう問題ではないと思います。

 

しかし、

「この世の荒波の中で戦いに疲れ果てて神様のもとに来たのに、

やっと平安を頂けたと思ったら、サタンと戦え!古い自分と戦え!だなんて、

それがキリスト教ですか? 愛の宗教ですか?

やっぱり神様は、厳しいお方だ。弱者の気持ちなどお分かりにならないお方だ。

それじゃあ、ほかを探します。では、さようなら。」

このように言ってしまわれたら、・・・ワタシはどう答えられるだろうか・・・

 

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」マタイ11:28

とイエス様は仰っています。

 

「・・・わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」11:29

イエス様のお言葉に

「イエス様の軛をお負いたくありません。イエス様に学ぶつもりはありません。ただ安らぎだけをください」

と要求するなら、イエス様は、その人の後姿を悲しく見送るしかないでしょう。

 

「わたしの軛は負いやす、わたしの荷は軽いからである」11:30

 

私たちの人生、今の状況を、私に与えられた耕すべき畑と考えてみたらどうでしょうか。

1人では耕しあぐねている弱い自分。どこをどのように耕してよいものやら、困惑して泣いている自分。

イエス様がそばに来られて

「わたしの軛を一緒に負わないか、あなたの畑を一緒に耕してあげよう、わたしがリードしてあげるから、大丈夫だよ」

 

イエス様と一緒に人生を歩むこと、それが人生を戦うことと、言えるのではないでしょうか。

そして、最後の時代にまだ生きていたならば、144000人の中にいることになるのではないでしょうか。

でも、それは、その時になってみて初めて分かること。

生きている今は、分からない。「隠されている事柄だから」。

 

マラナ・タ

知ろうとしなくていい。今、今、イエス様を信頼し通して与えられた畑を耕そう。イエス様の軛を負って。