ごきげんよう!さわこです。

続きます。遠藤周作「銃と十字架」より抜粋 その3

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ペドロたちは、まだ聖職者にはなれぬ日本人同宿(どうじゅく)に過ぎなかった。

故国に戻っても、死に絶えず曝されている信徒たちに力と勇気を与えるミサも立てられねば、

また棄教を悔いる転び者たちに罪の赦しを与える資格もなかった。

 

日本に引き上げても神父たちのような形で信徒たちを助けることはできなかったのだが、

それは自己弁解であって、マカオの上司や、聖職者たちの命令によるものではなかった。

迫害下の日本に次々と宣教師たちが潜入しており大追放の1-2年の間に

日本に密入国した宣教師の数は20人近くいるのだから、帰国の可能性はあり、

潜入は不可能ではなかったにもかかわらず、

ペドロ岐部たちが日本にもどらなかったのは、上司命令ではなく自発的な気持ちからだった。

 

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徳川政権が確立し、キリシタン弾圧が更に強化されることが明らかになり、マカオの聖職者たちは日本に対する積極的な布教を断念せざるを得なくなった。そして日本人神学生や同宿を司祭にする必要もなくなったとして、マカオで続いていた有馬神学校は廃校となった。神父になる希望を断たれ、学ぶべき場所も働くべき場所もなくなったペドロ岐部たちは、日本に戻るか、自力で神父になる勉学の道を見つけることしかなかった。

ペドロ岐部は後者を選んだ。しかし、それは、マカオの聖職者たちには、世俗的な野心、個人的な野望と映り手厳しく批判された。

 

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マカオで岐部は、どのような方法でヨーロッパに留学したのかはわからないが、ローマの神学校で優秀な成績を上げて神父になったトマス荒木に出会っている。荒木は岐部たちに独力でヨーロッパに行く方法やローマで神父になる手づるも教えただろう。

 

マカオからインドのゴアへ。ゴアには司祭養成の学院があった。

ゴアでだめならばローマに行こう。行き当たりばったりの冒険留学の道を選んだ。

1617年頃、日本には外人、日本人合わせて50人ほどの潜伏宣教師が死の危険に身を隠しながら

ひそかに布教を続けていた。しかもそのうちの何人かは捕えられ殉教していったのである。

 

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マカオからゴアに脱出した同宿たちメンバーの名前は、

岐部の他は小西行長の孫と推測される小西マンショと美濃出身のミゲル・ミノエスの他は不明。

 

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ゴアまでの海路、千々石ミゲルやトマス荒木たちと同じように「見るべきでなかったもの」を目撃した。

「見るべきでないもの」それは、キリスト教国の東洋侵略の具体的な姿である。

当時のヨーロッパ教会が布教の拡張のやめに東洋や新大陸やアフリカの各国侵略を黙認したことは否定できぬ。

この時代の宣教師たちには独立して異端の宗教を信ずる国民よりも

キリスト教国に征服されて改宗する民族の方がはるかに幸福だという考えがあった。

ヨーロッパのキリスト教が世界各地に広がったのは侵略を基盤としていたことも事実です。

 

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日本の為政者たちも、ある意味で西洋の東洋侵略と基督教布教の因果関係を阻むため、切支丹禁制に踏み切ったとも言える。

 

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ペドロ岐部は「見るべきでないもの」を見たにもかかわらず、信仰と現実の矛盾を見たにもかかわらず、

神父になる気持ちを失わなかったことは確かである。

 

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ペトロ岐部は、国東半島の岐水軍の子孫であり、キリストを信ずるキリシタンの家に育った。

彼の半生はすべてキリストによって生き、キリストによって振り回されてきた。

それゆえにキリストの歩かれた土地を我が目で見、我が足で踏みたい欲望が抑えきれなかったのである。

その意味で、彼のローマまでの旅は巡礼の旅でもあった。

聖地パレスチナを経てエルサレムを訪れ、ローマ法王の居るローマに至るという巡礼だったのだ。

言葉も通じず、身分、国籍を保証する何ものもなく、旅費さえも持ち合わせていなかった日本人青年が350年前、

どうして、どのような方法でペルシャやパレスチナを通過できたのだろうか。

言葉一つも通じないか回教徒の隊商にどうして加わり、どのように誤解や生命の危機を逃れて旅ができたのか。

言葉も通じぬ、約束をたがえることを平気に思っている人たちを相手にして荒涼とした砂漠を横切りながら、

苦行にも似た旅をしたのである。

 

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岐部の目的は神父になることである。神父になるとは、イエスに倣うことであり、イエスの跡を追うことである。

つまり、神父になったその日から、彼の運命ははっきりと決まるのである。

迫害下の日本に戻り、潜伏宣教師と共に日本の信徒たちに勇気を与え、その苦しみを慰め、

そしてイエスのように苛酷な死を引き受けねばならないのである。

死ぬまでの短い期間、1人でもよい、よろめきかかった日本人信徒を励まし勇気づける。

日本人にキリストの教えを伝える。一粒の種を日本の土壌に落とす。それが使命であった。

 

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ヨーロッパから日本に向かう旅路に、再びヨーロッパ人の東洋侵略の実態をつぶさに見た。

侵略と言う土台の上に立って布教を行っている教会の実情もあらためて見た。

侵略を黙認しているキリスト教会。

それは当然、イエス自身の教えとは背反している行為だった。

彼の先輩だった天正少年使節のひとり千々石ミゲルや、

またヨーロッパ留学生として先にローマで学んだ荒木トマスも、

帰国の途中この実態を知り、この矛盾に気づき、基督教への信頼感を少しずつ失った。

 

続く