ごきげんよう!さわこです。
銃と十字架」より 抜粋 その2
続きです。
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マカオのイエズス会からは「招かれざる客」と迷惑がられたが、それでもペドロ岐部たちマカオに逃れた追放日本人たちはまだ倖せだった。
この町である程度の屈辱や不便を味わわねばならなかったにせよ、生命の安全は保障され、その信仰を守ることができたからである。
のみならず、彼ら神学校の卒業生や生徒はわずか一年の間にせよ、勉学を続けられたのだ。
彼らが、長崎や有馬に残した日本人信徒に後ろめたさを感じなかったのか。
いかに弁解しようとも、ペドト岐部たちは日本の信徒を見捨て、このマカオに来たのは
家康の国外追放令に従わねばならなかったとは言え、
彼らの先輩や外人宣教師のなかには敢然として日本に潜伏することを決意し、それを実行した者たちがいた。
彼らはやがて始まる迫害の中で、孤立している日本人信徒を放棄することができなかったのだ。
安全の中の信仰の保障よりも、苦しみのなかの連帯を彼らは選んだのである。
事実、この後ろめたさに耐えかねて、マカオからふたたび迫害かに戻ろうとした何人かの外国人宣教師や日本人たちがいる。
イタリア宣教師のアダミ神父、イエズス会のパセオ神父、ゾラ神父、日本人修道士ガスパル定松。
彼らはマカオから日本に引き返している。
残した日本信徒をついに見捨てることができなかったのだ。
安全な場所でおのれの信仰を守りつづけるべきか。
それとも切支丹禁制の日本に引き返し、日本人信徒と苦しみを分かち合うか。
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幕府は日本在住の宣教師すべてがマカオ、マニラに映ったと信じていたが、実は46人の神父、修道士たちが日本に潜伏していた。
信徒たちにひそかに助けられて村の納屋や山中の洞窟のひそかな隠れ家にひそんだ。
信徒たちも自分の貧しい食事をさき、その行動を助けた。
日本の基督教史のなかで、これほど聖職者と信者が一心同体となり、
原始基督教会にも似た強い団結力でおのれの信仰を守ろうとした時期は他にないだろう。
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潜伏宣教師たちは、呼ばれた家に行くとまず病人の罪の告白を聞く。
その家に信徒が集まって来ると、罪の赦しを与える。
信徒の誰が信じられ、信じられないかを予想はできなかった。
連帯感と共に警戒心も持たねばならぬ同志のなかで、自らの運命を託すほかはなかったのである。
潜伏宣教師たちは、信徒たちに、
永遠の至福は拷問にも耐え、死の恐怖にも打ち勝って棄教しなかった者に与えられ、
一方その理由が何であれ、敵側の威嚇に屈して信仰を否定した者は
地獄に墜ちるとさえ、はっきりと教えていた。
日本の教会は、表面的便宜的棄教も決して認めなかった。
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迫害者側の迫害もすさまじかったが、宣教師の信徒にたいする要求も苛酷で厳しかった。
いかなる責め苦にも耐え、殉教によって天国(パライソ)を獲るか、
それともそれ以外の生き方をして地獄に堕ちるか、
この二つしか切支丹の今の生き方はないのだ、と日本の信者たちは教えられたのである。
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こうして二つの人間が分かれた。
大追放令以後、強き信仰者になるか、弱き転びものになるかのいずれかに生きねばならなかった。
彼らは救いの希望の他に心を励ます武器はなく、祈ることの他に身を守る武器はなかった。
彼らは、もはや10年前、20年前の信徒のなまやさしい生き方はできなかった。
静かに祈り、静かに神を考えることもできなかった。
神はなぜ、このような苦痛を与えたのか、
神(デウス)はなぜ、黙っているか、という思いだけがすべての信徒たちの心を苦しめた。
潜伏宣教師たちはそれでも彼らの疑問に、それこそ神の愛であり、慈愛なのだと教えた。
宣教師たちは、基督もまた責め苦と十字架上の苦しみを味わったことを強調した。
だが、このような厳しい要求と励ましにもかかわらず、
拷問と死との恐怖に耐えかねた信徒の中には転ぶ者も続出した。
信徒たちは言うまでもなく、
宣教師たちが最も期待した神学校出身の者にも、いや、神父の中にさえも棄教するものがいた。
続く